「ひき☆スタ」では2017年6月に書評「「ひきこもり」経験の社会学」を掲載しました。
今回、その著者である社会学者・関水徹平さんにインタビューを敢行!

蒸し暑い都内某所、待ち合わせ場所にカジュアルな恰好で現れた関水さんに、ご自宅へ案内していただきました。ちゃぶ台を囲んでのインタビュー。「ひき☆スタ」に寄せられた投稿を読んでいただきながら、「お金」や「働くこと」など、ユーザーの関心が強いトピックを中心にお話を伺いました。

今回ご紹介する前編は、関水さんが「ひきこもり」を研究するきっかけや、働くことについてのお話を掲載しました。

哲学的な疑問と「不条理」が、自分と「ひきこもり」とを結びつけた

――ひきこもりの研究を始めたきっかけについて教えてください。
昔から「なぜこの世界は存在するのだろう」といった、哲学的な疑問を抱いていました。
そうした「問い」の答えを求めて、哲学を専攻するつもりで大学に入りましたが、哲学の授業で教えられていた内容は、当時の自分には概説のように聞こえて、自分の関心と結びつけることができませんでした。

この世界はなぜ存在するのか。そんな哲学的な疑問にみんなどうやって向き合って生きているのか。そういう疑問に答えが見つからないまま生きることができるものなのか。正面切って自分の中に抱えていた大きな「不条理」と折り合いがつかないまま過ごしていた大学生活でした。

そういう哲学的な疑問だけではなく、自分は人とうまく打ち解けることができないし、多数派のようには生きられないという言葉にしづらい生きづらさも日々感じていました。そうした自分自身の抱えていた生きづらさが、「ひきこもり」について関心をもった理由だと思います。私が大学に入学したのは2000年ですが、ちょうど「ひきこもり」という言葉が世間で認知されたころだったと思います。

私自身は生きづらさを抱えながらも大学に通い、ゼミにも出席していましたが、他の人たちができている「当たり前の顔をして社会で生きていく」ということにつまずいている自分を感じていて、ひきこもった経験はないものの、自分も当事者性の片鱗をもっていると思っていました。

ただ、「ひきこもってしまう人の気持ちが、自分にもわかる気がする」と想像していたものが、実際とは大きく違っていたことに、あとで気づかされることになりました。
学校に行きたくないとか仕事に行きたくないと思うことと、実際に学校に通えなくなったり仕事に行けなくなったりすることとの間には、埋められないほどの溝があるという、当たり前といえば当たり前のことのことですが、その違いの大きさは、研究を始めた当初は正直よくわかっておらず、実際にひきこもる経験をした人たちの話を何度か聞かせてもらうなかで理解するようになりました。

ひきこもり名人・勝山実さんの記事のヤフー版コメントでは、批判的なコメントがたくさん来ているそうですね。

働かなくても親孝行する方法 ひきこもり名人・勝山の「生存戦略」とは?(AERA dot.)
https://dot.asahi.com/dot/2017072400024.html

実はひきこもり研究を始めたころの私は、勝山さんの書いた『ひきこもりカレンダー』という本を読んで、勝山さんの文章のユーモアのセンスなどを受け入れることができなかったんです。それは、自分の想像力の範囲でしか、ひきこもりという経験を想像することができていなかったからだと今は思います。

親は自分の成長をサポートしてくれるものだし親には感謝すべきだとか、仕事は人生に張り合いや充実感を与えてくれるもののはずだとか、そういう常識の枠組みからみると、勝山さんの言っていることは理解に苦しむことばかりだと思います。

しかし、外からは容易に理解できない家族関係もあるし、自分の想像を超えた生き方や経験もあります。私自身、他のひきこもった経験のある人たちの話を聞く中で、自分の想像力の狭さを思い知らされました。

実際に勝山さんとお会いしてお話しを聞いて、あらためて本を読み、試行錯誤の中で勝山さんが現在の立ち位置に至った経緯、勝山さんの表現の必然性のようなものが理解できるようになったと思います。

常識の枠からはみ出した経験のある人たちの間で、勝山さんのユーモアがすんなりと理解され、ファンも多いのは、やはりそうした人たちが勝山さんの表現の背景にある文脈を共有できているからではないかと思います。



日本の正社員はただのサラリーマンなのに「経営者」目線

――ひき☆スタの投稿に「自分が発達障害だった場合、普通の会社で働けるのだろうか」という不安の声が多く寄せられています。
日本社会の労働環境は、労働者に要求されるパフォーマンスの水準がますます高まっているうえに、人件費をコストとみなして極力それを抑制・削減しようという方向に進んでいます。そのため、人とぶつからず、安定してそつなく仕事をこなせる人が求められる一方で、コミュニケーションの取り方に癖があると見られる人にとっては働きづらい職場が、昔より増えているのだろうと思います。

昔はみんなが当たり前のように正社員という状況でしたが、70年代のオイルショック以降は仕事の効率とか生産性の向上への要求はますます高くなり、さらに90年代はいかに人件費を削減するのか、という視点で企業がリストラや非正規雇用を活用する方向に動き始めました。

今の日本では、正規雇用と非正規雇用の格差が非常に大きく、非正規雇用で働く生活は、なかなか先の見通しがもちづらい面があります。また正規雇用で採用されても、生産性の高さを常に求められるような職場では働き続けることへの不安が生まれるのも当然だと思います。

職場で「あの人は仕事ができない」と誰かを排除したり攻撃したりする人たちは、自分で仕事のハードルを上げているわけですよね。もちろん、仕事は仕事として求められる水準があるわけですが、自分でその水準を上げてしまう、そういう真面目さのマイナス面もあるのかなと思います。「仕事のミスはお互い様」「得意なこと、苦手なことがあるのが人間」という気持ちを持たないと、社会から働きづらさがなくなることはないと思います。

もしかすると極端な意見に聞こえるかもしれませんが、経済活動の生産性や効率を上げ続けるために人間が生きているわけではなくて、人間がよりよく暮らすために経済活動があると考えると、生産性というものさしで人間が社会から排除され続けるのは本末転倒だと感じます。

――日本の労働環境の特徴についてもっと詳しく伺いたいのですが。
これは日本社会の特徴なのではないかと思うのですが、正社員の多くは「経営者」目線を内面化しているように感じています。経済新聞などを読むと経営者の立場に向けた記事が多いなと感じますが、サラリーマンがこれだけ経済新聞を読んでいるというのは不思議な光景にも思います。雇われ人ひとりひとりが、みんな経営のビジョンを持って考えているかのように見えます。

これは想像の域を出ないですが、日本の正社員サラリーマンに「経営者」目線が浸透しているとすれば、それは正社員が「職務」で雇用契約されているのではなく、会社員という「身分」で雇われているという事情が関わっているのかなと思います。

労働法の研究をされている濱口桂一郎さんが、職務や勤務地等を特定して雇用契約を結ぶジョブ(職務)型雇用と、具体的な仕事内容については「白紙」のまま会社の一員になるという労働契約を結ぶメンバーシップ型雇用という2つの雇用を区別していますが、日本の正社員は世界的にも珍しいメンバーシップ型雇用です。

「職務」で契約していれば、待遇の改善を求めて同じ「職務」の仲間と会社を超えて連帯したりするのですが、会社の一員という雇用では、いずれ自分も会社で高い地位につくかもしれないという期待をもち、会社のために尽くすという考え方になりやすいように思います。これが、日本のサラリーマンが「経営者」目線を内面化しやすい理由のひとつだと思います。

問うべきは「働けるかどうか」ではなく「働く」とは何なのか

――著書「「ひきこもり」経験の社会学」に、「ひきこもり」という言葉は「語る立場」によって意味が大きく異なる、という趣旨の記述がありました。支援者の立場と当事者の立場から語られる「ひきこもり」にすれ違いがあると感じますか?
「ひきこもり」という言葉は様々な事情で家庭を中心に過ごす人たちを指しますが、ひきこもりと呼ばれる人々が多様であることは、基本的には日本の社会福祉制度の不十分さの表れだと考えています。社会保障・社会政策の研究ではたびたび指摘されていますが、日本の社会保障の仕組みは、生活保護を受給することへのハードルが高い一方で、生活保護の手前で利用可能な社会福祉の選択肢が乏しいという特徴があります。生活保護を受給しないのであれば生活保障の役割は家族が担うという意識が強く、また制度的にもそれを負わせている側面があります。つまり生活保護の手前の社会福祉がとても乏しい結果として、家族の負担がどうしても大きくなる。

生活保護にふくまれる住宅扶助、医療扶助、家族手当等を分解して、また教育保障や給付金付職業訓練制度の対象を広げるなど、ひきこもりの人たちのニーズをカバーできる社会福祉利用の選択肢がもっとあった方がよいのではないかと思います。

また、ソーシャルワークの分野ではかならず「当事者の主体性・意思決定を尊重する」ことが支援関係の基本であると学びますが、ひきこもり支援ではその原則が適応されないことが多いと感じます。当事者の状況やニーズは様々なのに、支援の目標は、就労か就学かにあらかじめ設定されがちです。支援目標を、支援者と当事者が一緒に話し合うような関係が、当事者の意思決定の尊重につながるのではないでしょうか。

支援目標が就労・就学になってしまうのは、やはりひきこもり当事者のニーズをカバーする社会福祉の選択肢が乏しく、ひきこもりからの回復が「企業で働いて生活をする」というモデルの中でのみ考えられてしまっているからだと思います。

そういう前提があるために、「ひきこもり当事者も就労自立を目指すべきだ」という考えが先行してしまい、「当事者はどう考えているか」ということが考慮されにくいのではないでしょうか。

ひきこもり経験の当事者と非当事者の溝を埋めるためには、「ひきこもりは働けるのか」「ひきこもりの人たちには障害があるのか」という単純な二分ではなく、そもそも「働く」とは何なのか、「障害」とは何なのか、という点からあらためて考える必要があると思います。生産性の向上を目指す動きはとどまらず、会社で働くためのハードルがますます上がる中で、「働ける」という状態をキープし続けることはさらに難しくなるのではないでしょうか。「ひきこもり」について考えることは、そうしたひきこもり経験者以外の人たちの働き方の枠組みや、働くとはどういうことなのか、働けないとはどういうことなのか、という概念を捉え直すきっかけになると思います。

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ひきこもり当事者の経済的困窮や、セクシャルマイノリティのひきこもりなどについて伺った後編は、近日公開予定です!

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