非社交的社交性 大人になるということ (講談社現代新書)
非社交的社交性 大人になるということ (講談社現代新書)
中島義道
2013年
講談社現代新書
224ページ

「やがて死ぬこの自分が生きる問題」

著者の中島義道さんは1946年生まれの哲学者。大学教授を退職した後「哲学塾 カント」という、一般の人にも開かれた講義を主宰しているんだ。本書も「哲学」を題材にした内容となっているよ。

まず「哲学」とは何だろう?これは多岐に渡ることなので一概に書くことはできないのだけど、まず挙げられるのは、自分たちが住む「世界」、そしてひとりひとりの「人生」が、どのような意味や目的や価値を持つのか思索すること。それは転じて「社会の正義」といった壮大なテーマに据え置かれることもある。今回紹介する本での「哲学」とは「自分の生きること」という、個人の生についての思索が根底にあるのではないかな。そうした類の「哲学すること」を伴いながら持論が展開されていくんだ。

さて、著者は「哲学者」ということだけれども、これは「哲学」以上に日本では馴染みのない言葉かもしれない。「哲学者」の人物像……みんなはどんな人を想像するだろう?
本書は大きく2部構成になっており、その前半の大部分は著者のバイオグラフィーや経験に沿って「対人関係」の在り方を論じている。ここで著者の人となりが少し垣間見えるのだけど、これがまた一風変わっている(ように思える……)。社会が醸し出す「偽善」、それに冠婚葬祭のような「儀式」を嫌い、研究室という名の「個室」で自分の世界を楽しむ(会社に個室をあてがえば、人間嫌いの人も就職できると思うし、うつ病患者も自殺予備軍も激減すると思うのだが、とも書いている)。そうした、半分だけ社会から撤退する自らの生活を「半隠遁」と表現。大学教授といえば、学内外でたくさんの人と会わなければならない世界だけど、それでも著者は外部との摩擦を最小限度に抑えようとしていたんだね。この「半隠遁」生活が、タイトル「非社交的社交性」とリンクすることになる。

そして、この第Ⅰ部では、著者が若くして哲学の道を志していることが分かるんだ!受験勉強から開放され、その途端に何をしていいのか分からなくなった大学生時代を、こう振り返っている。

講義は何もかもつまらなかった。このすべてを知って何になろう? あと数十年で死ぬだけだ。その後は永遠の無が待っているだけだ。[…]私は二十年前に生を受けたこの世界の真理を知りたかった。といっても、社会科学や自然科学の教える真理ではない。なぜ、私は生まれてきて、すぐに死ななければならないのか。神がいるとするなら、なぜ私はこんな過酷な運命に投げ込まれたのか、それを知りたかった。何度考えても、それ以外に興味あるテーマは見つからなかった。

「やがて死ぬこの自分が生きる問題」。この問題に比べれば、あらゆる社会問題の解決を含む「よりよい社会の実現」は「粗雑で瑣末なもの」と言い切っている!ふーむ。

こうした考え方を持っている人は多数ではないけれども、確実に存在している。それは、著者の主宰する「哲学塾 カント」に集まる人たちだ。哲学を志し、著者の考え方に肯定する人に限定される、約650人の人々。多数は「ほとんどまともな人」だけど、それと同じくらい「ちょっとヘンな人」、そして極めて少数の「かなりヘンな人」が自然な形で共生しているという。彼らは「要領よく、軽く、そつなく」生きることができず、そのために「生きにくさ」を抱えている、と書いているね。

呆れながらも共感するエピソードの数々

著者の元へ訪れる塾生たちは、どのように「生きにくさ」を抱えているのか?それは本書の第Ⅱ部「こころ優しく凶暴な若者たち」で多数のエピソードをもとに紹介されている。先に断っておくと、著者は彼らの行動のほとんどについて呆れ、時には苛立ちすら感じている。それでも「一抹の共感を覚え」ているという。哲学を志した人々に特有のシンパシーがあるのだろうか?

何はともあれ、数々のエピソードのうちの一つをここで紹介しよう。それは、若い生徒たちによる授業料の未納問題だ。これは塾を開設して以来最大の問題となっただけでなく「現代の若者像をこれ以上ないほどよく示している」と書いている。その中でR君の例を取り上げるよ。

R君はとても素直な「いい子」なのだが[…]絶対に聴講料を払わない。「貧乏だから」と答えるが、なかなかのおしゃれで、なかなかのイケメンであり、いつもファッションを変えてくる。[…]
「きみ、コンビニでバイトでもすれば一日一万円くらいは稼げるだろう? 君は若くて健康なんだから」
すると、もじもじして答える。
「先生、ぼくは、バイトしたくないんです」
語調を強めて、問い詰める。
「それは、おかしいよ。じゃ、塾に来なければいいだろう?」
「でも、ぼく、哲学がしたいんです」
「じゃ、三食を切り詰めて聴講料を貯めればいいじゃないか」
「…………」

この問答の末、著者はR君に事務員の仕事を任せることにした。そうすれば、聴講料が無料になり、バイト代で未納分を払えると考えたんだね。これを聞いたR君は熱心に仕事を始めたものの、肝心のR君が未納分を支払わない。そこで半月後にR君を呼び出した。

「とてもよく仕事をしてくれてうれしいんだが、きみ自身が未納金を払わなくて他人の未納金を取りたてるのはおかしいのではないかなあ?」
「そうですね」
R君は下を向いて考え込んでしまった。そして、その夜、R君からメールが入ったのである。
先生、今日は先生から言われて自分の甘えがよくわかりました。事務の仕事はやめます。そして、今後はお金がないので哲学塾には行きません。
そして[…]いまだにR君は二万円ほどの未納金を払ってくれないのである。

こうした塾でのエピソードが幾つも登場する。そして、その多くが塾で起こったことであるけれど、その後塾生からのメールによってトラブルとなることが多いようだね。著者はこうした観察を踏まえ、自分たちの世代の常識からすると、彼らはおそるべき非常識な行動に出る、と考えている。「状況がまったく読めない」という今の若者の特徴は、教えて直ちにわかるはずもない根本的欠陥であり、彼らは拒否されることを通じてそのことを知っているが、実感がない、とも書いている。

彼らは人生のあるとき(少年時代)に、ナマの他人とのコミュニケーションを遮断してしまった。典型的には「引きこもり」である[…] そして、彼らが仕事によって自活しなければならない年齢に達したとき(二十代後半?)、世間はこうした(世間の基準からすると)「欠陥人間」を見逃すことなく慎重に間引きするのだ。このことにより、何度も面接で落とされ、何度もバイト先で怒鳴られているうちに、彼らにはありとあらゆる仕事の適性に対する「マイナスの自信」がついてしまっているというわけである。

社会の慣習にうまくフィットできず、仕事へ就き(世間基準の)生活を営むことが難しい若者たちに、ひきこもりの資質を見出しているんだね。

こうして書いていると、著者は今の若者たちを否定的に見ていると感じるかもしれない。たしかに、塾でのこうしたトラブルに著者は苛立ちを覚えているが、本章の冒頭に書いたように、その一方でシンパシーを覚えているんだ。それは、著者自身が思い悩んだ大学生時代の経験とも無縁ではなさそうだね。
そして、ここが哲学者らしい(?)ひきこもり的な資質の捉え方になるのだけど、著者はこうした若者が「生きにくさ」に苦しめば苦しむほど、どこまでも真剣に生き続ける限り、その「生きにくさ」には磨きがかかる、と表現している。世間に氾濫する情報を疑うことなく受け入れ、深い親交もなく軽やかに生きる「普通」の人たちよりも、著者にとってはこうした若者たちの方がずっと魅力的に思えているのではないかな?これは、以前に書評で紹介した、吉本隆明さんの「ひきこもれ -ひとりの時間をもつということ-」と近い考え方だな~!

カントの「非社交的社交性」という哲学

社会での「生きにくさ」を抱える運命となった若者たちに、どのような生き方が残されているのだろうか。そこで著者が提案するのが「非社交的社交性」という考え方なんだ。第1章の最後に紹介したように、著者は「半隠遁」することによってこの考え方を実践している。

この「非社交的社交性」という考え方は、カントという有名な哲学者が考えた言葉なんだ。カント(1724~1804)は、人間は「社会を形成しようとする性癖」と「自分を個別化する(孤立化する)性癖」の両面を持っている、と考えていた。これは、人間は一人でいることもできないが、他人と一緒にいると不快にもなる、と、人間の抱える矛盾を分析している。こうした「イヤな奴とも付き合わなければならない」社会の宿命は、著者にとっても生涯の課題となっているね。

そこでカントは、毎日午餐(ごさん)に客を招いてパーティーをするようになった。そして、その場に呼ぶのは哲学者以外の人々と決まっていた。こうした他人はカントにとって、ただソファやクッションのように、自分の生活を快適にするための「設備」に過ぎなかったという。どんなに会話が活発化しても、時間が来るとさっさと客を帰し、スイッチを切り替えるように孤独な自分に戻ったというんだね。ふむふむ!

しかし、見事な対人関係の管理は、他人の侵害を極端に恐れていることの裏返しでもある。これは対人恐怖を抱える今の若者にも通じるところがあるのかな。著者はカントの思想に沿って、一つの提案をしている。それは、いわゆる万人向けの「社交性」を目指すのではなく、自分の「わがまま」が通る場を確保することだという。カントの場合は仕事により評価されることで、上記のような「わがまま」を通したが、一握りの人間以外の大多数は、真摯で不器用なゆえにそうした居場所を失っている。

本書で登場した「哲学塾 カント」は、まさに「生きにくさ」を抱える人たちの「居場所」となっている。社会に背を向け、自分のプライドが保たれる道を模索した若者は「ふつう」に戻ろうにも戻れず、先も見えずという足踏み状態に陥る。そうした青年にとって、「哲学」はもがき苦しむ状況から抜け出せる一つの抜け道ではないかと考えているんだね。「哲学」することで「常識」を笑い飛ばす。「非社交的社交性」を身につける第一歩と言えそうだな~。

生きにくさを抱える人が、社会と自己の狭間でいかにもがき苦しんでいるか、ストレートな言葉で吐露されている!ご自身の、そして若者たちの内面を生々しく描き出すがゆえに、哲学することとひきこもり的資質が、しっかりリンクするんだ。哲学には興味があるけど……という方にとって、一つの足がかりとなるのは間違いないね!

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