日本で唯一の不登校・ひきこもりの専門紙「不登校新聞『Fonte』」。編集長の石井志昂さんはご自身も不登校経験者です。
当事者目線の情報発信がコンセプトの「不登校新聞」について、石井さんにお話をうかがってきました。
聞き手/勝山実(ひきこもり名人)&伊藤書佳(編集者)
日本で唯一の不登校&ひきこもり専門新聞
不登校新聞編集部が入っている東京シューレ王子校舎
―「不登校新聞」とは、どんな新聞ですか?
石井 「不登校新聞」は、1998年の創刊以来、毎月2回、1日と15日に発行している新聞です。非営利ですし、コンビニや駅の売店では売っていません。定期購読を募って発行しているミニコミですね。おもな読者層は不登校やひきこもりの子どもと暮らす親の方たちで、現在の発行部数は1900部。紙版のほかにウェブ版も出しています。
―すべての雑誌、本の売り上げが下がっているなか、ジリジリ部数を伸ばしている数少ない新聞だという噂を聞いたんですけれども……
石井 ほんとうに底辺から底辺への移動ではずかしいかぎりですが、部数は上がってることは上がってるんです。すごくミニマムなところでの成長という部分で少し注目されて、ビッグイシューさんや中日新聞さんから「成長する新聞」みたいなかたちでとりあげられました。
―数年前は休刊の危機にあったそうですね。
石井 そうなんです。購読数が820部まで低下しまして、休刊の危機に陥っていたんです。休刊ラインというものがありまして、それが1100部。なんとかみなさんの支援で持ち直しました。ほんとに首に皮がついた状態です。いままでは首がとれてる状態だったのが、首の皮1枚でつながっている状態へ回復した。たいへんうれしく思っています。
社会復帰させる新聞ではない
―不登校新聞の編集方針のなかに社会復帰という言葉は使わないというものがあるとうかがったのですが…
石井 当事者目線ということをいちばん大事にしているので、社会復帰という言葉はいらないと思っています。人気俳優の斎藤工さんのインタビューも当事者のインタビューも、どちらも1面トップの記事としてあつかいます。
不登校新聞と聞くと、不登校を治す新聞だと誤解されることがいちばん多いんです。しかし「不登校新聞」は、不登校を直す新聞でも、学校復帰させる新聞でもない。本人がどうやって生きていくかをいっしょに考えていきたいというのが編集方針です。当事者目線というのを創刊時から一貫して大事にしています。
社会復帰についても、その人が復帰したかったらすればいいということで、むしろその人自身がありのままでいいんじゃないか。だから、当事者本人が言ってること、その目線から語るというのをいちばん大事にしています。
中学2年生からの不登校
―石井志昂さん自身、中学時代から不登校だったと「不登校新聞」の記事で読みました。学校に行かなくなったのはいつ頃からでしたか?
石井 中学2年生から不登校です。そもそもは小学6年生の中学受験からはじまります。過度なストレスによって精神的にもかなりバランスを崩していたところへ中学受験に失敗して、非行も始まりました。学校に行っているだけで自分に対して腹が立ってくるんです。どうしようもなくすべてのことが嫌になって、腹立たしくなって、もうめちゃくちゃにしたいという気持ちをずっと抱えて、バーストしてしまった。中学2年の2月ぐらいだったと思います。
―行かなくなった後はどうされていましたか?
石井 すぐフリースクールに行きました。不登校する前にフリースクール「東京シューレ」の本を読んでいて、不登校した人間はすべからく東京シューレというところに転校するんだと思っていたんです。全宇宙の不登校児がここに集まってるのだと思っていた。だから、ここに転校しなければいけないと。東京シューレの本を読んだら、「制服はありません。校則はありません」とか、フリースクールであれば当然のことが書いてあるんですけど、「あ、今度転校するところは楽でいいな」と思っていました。ちょっと、バカだったんですね。
―なるほど……
全宇宙の不登校が東京シューレに集まる
石井 東京シューレに入る面接のときに、「あなたの意志でここに来たいんですか」と聞かれて、「おれの意志じゃねえよ。全宇宙の不登校はここに集まるんだろう」と。
―世の中の決まりで来ているんだ。これもルールだ、と。
石井 ほんとに感覚的にはそう思いながら東京シューレに行っていました。
―なぜ東京シューレの本を学校に行かなくなる前に読んでいたんですか。
石井 学校に行っていたころはすさんでいて、放課後は街をうろうろして、毎日本屋に行ってたんです。そこで、「学校は必要か」(NHK出版)というタイトルの本が目に入った。東京シューレの主宰者・奥地圭子さんが書いた本でした。学校に行けば行くほど学校に対して腹立たしく、そこに毎日通っている自分に対して憤りを感じていたときに、「学校は必要か」というのはほんとうに根本的な問いだった。自分のすべてを支配してる怒りの根源である学校に対して、「それって必要なの?」と言われたことが衝撃で、本も読まずにそのタイトルですべてを決めちゃったんですよ。「これを書く人のとこに行こう」と。
「明るい不登校」と呼ばれていた頃
―東京シューレには何歳まで通っていましたか?
石井 結局14歳から19歳までいました。
―この写真は、いつごろの写真ですか?
石井 これは17歳のころです。
―ということは、「明るい不登校」と呼ばれていた頃ですか? 写真を見ると、とても…こわいお顔ですが…
石井 そうです、そうです。この前、自分で写真を見つけてぞっとしたんです。これが明るい不登校だったのか! と。みんなよくいけしゃあしゃあと、「勇気づけられた」とか、「あんな明るい不登校がいたんだ」と言えたなあ。目ですよね、くすんだ目。
―棒線入れたいくらいですね。
石井 みんな懐かしがる写真です。この頃、ちょうどバイトをしたいと思っていた時期でした。「学校に行ってないんだから、働かなければ」と思っちゃってた。
―やっぱり働かなきゃいけないという圧力があったんですか?
石井 バイトしたいという気持ちが、ビンビンに来てました。
―それは本心?
石井 本心です。でも、そう思ってから半年、求人情報を手にとらずにいました。バイトしたいと思ってから、知人に求人情報誌をもらったんです。その情報誌を半年後に開いて、「よし、電話しよう」と思ってかけたら、もう求められてなかった。当然ですよね。半年前の求人ですから。
それで挫折して、また一年ぐらいしてから求人情報を見て、申し込みの電話をして断られて挫折。その一年後にまた探して……。バイト志願者であることを2年以上つづけていたときの写真ですね。そりゃ目がくすみますよね。バイトしなくて、バイト志願だけしてるんですからね。働かなきゃって気持ちだけが募るいっぽうの頃ですね。
―心が焦っているし、1年おきに断られて、否定されてるわけですからね。いいお話をありがとうございます。
「ひき☆スタ」不登校新聞石井編集長を撮ってみた from NPO SCMN on Vimeo.
【石井志昂】
不登校新聞編集長。中学2年生で不登校になり、東京シューレに入学。17歳から不登校新聞社子ども若者編集部に参加、19歳からスタッフとなりその後編集長に。
石井志昂Twitter:https://twitter.com/shikouishii
不登校新聞:http://www.futoko.org/
【伊藤書佳】
編集者。NPO法人全国不登校新聞社理事。不登校・ひきこもりを当事者と語る「いけふくろうの会」世話人。
伊藤書佳Twitter:https://twitter.com/fumika_itou
いけふくろうブログ:http://ikefukurou.blogspot.jp/
【勝山実】
著述業、ひきこもり名人。1971年横浜生まれ。好きな言葉は「学歴不問」。2001年「ひきこもりカレンダー」を出版。07年「ひきこもりカレンダー」絶版。かつちゃんは倒れたままなのか。否、かつちゃんは立ち上がった。「安心ひきこもりライフ」(太田出版)発売中。
勝山実Twitter:https://twitter.com/hikilife
ブログ「鳴かず、飛ばず、働かず」:http://hikilife.com/