「「ひきこもり」から考えるー〈聴く〉から始める支援論」の表紙

2021年11月、「「ひきこもり」から考えるー〈聴く〉から始める支援論」(ちくま新書)という本が出版されました。著者は、松山大学教授の石川良子さん。単著では「ひきこもりの〈ゴール〉―「就労」でもなく「対人関係」でもなく」(青弓社ライブラリー)に続き2冊目となります(「ひきこもりの〈ゴール〉」はひき☆スタ「読んでみた。」でも取り上げていますhttps://hkst.gr.jp/review/3248/)。

本書では「ひきこもり支援」を考えるにあたり、相手の話を「聴く」という切り口に着目。「聴く」ことを支援の根幹に据え、ひきこもり当事者の「語り」と、それを「聴く」支援者や家族、それに周りの人々の関係性を注意深く考察した内容となっています。胸のうちをうまく話せずにいたひきこもり当事者や経験者にとっては「なぜひきこもる理由をうまく話せないのか」というもどかしさの根源をたどるヒントになり、支援者や家族らにとっては「なぜ当事者とのコミュニケーションがうまくいかないのか」という悩みに道筋を提示しています。

「最近はコロナで関東に行く機会がほとんどない」という石川さんへ、リモートでインタビューしました。前編では、大学時代のことや「ひきこもり」の研究を始めたきっかけ、相手の話を「聴く」ために大切なポイントなどについて伺っています。

大学卒業後、どう生きていくかイメージできなかった

大学3年生の冬ごろ、同級生たちがグレーや紺のスーツに身を包んでいるのが目につくようになりました。それは就職活動が始まったことを意味していたのですが、最初のうちはそのことが分からず、なんだかびっくりしたような記憶がうっすら残っています。
就職活動をサポートするために設置されている「就職課」の存在も知りませんでした。大学に友達がいなかったから知る機会もなかったんです。
「就活サイトに登録すればいいよ」と教えてくれたのは、中学時代の同級生。それで登録してみたのはいいけれど、就職活動って何をすればいいか分からないし、自分がどういう仕事をしたいのかもわかりませんでした。
私にとって「就職する」というのは、毎朝決まった時間に起きて、満員電車に乗って、夜まで仕事をする……というイメージだったんですけど「そんな生活はできないなあ」と思っていました。

そんなある日、テレビの報道番組で「ひきこもり」を特集していました。私が大学3年生だった1999年末から2000年前半は、ひきこもりが社会問題として世の中で取り上げられた時期と重なっています。その番組で当事者の人たちを見て「これって自分のことじゃないか?」と思ったんです。これが「ひきこもり」とのファーストコンタクトです。

当時、ひきこもり当事者にシンパシーを感じた理由は、進路の悩みだけではありません。幼いころから人と距離をうまく取れなくて、人間関係をどう築いたらいいかわからないという感覚がずっとありました。いま考えてみたら、「いじめ」と捉えられるような扱いをされたこともあります。

「ひきこもりへの共感」からの脱却

進路が決まらないまま時間だけが過ぎていったのですが、怖くて怖くて仕方がなかったですね。何が怖かったのかというと、身分や所属がなくなってしまうことです。自分が何者なのかもわからない。何ができるのかもわからない。何をしたいのかもわからない。真っ暗な海に放り込まれて溺れ死んでしまうのではないか。そんなイメージでした。

とにかく卒業後の行き先を決めなければならない、でも就職活動はできない、じゃあどうしようとなったときに思いついたのが大学院でした。研究したいことがあったわけではなく、いったんかくまってもらおうという感覚です。全くけしからん(笑)ただ、これまでだってろくに勉強していないんだから最初から合格するわけがないと思っていたんですが、受かってしまって修士課程に進むことになりました。そこで選んだ研究テーマが「ひきこもり」でした。それから今日まで、ずっとひきこもりを軸に研究を続けていくことになります。

私としては「ひきこもりって自分のことだ」という共感から研究をスタートさせたわけですが、そうしたニュアンスを含んだ振る舞いが当事者の反感を招いたこともありました。本書でも書いていますが、こうした経験によって自分自身を「ひきこもり経験のない」非当事者として位置づけることになります。

「ひきこもり」研究を続ける理由

シェルターとして逃げ込んだ大学院も、2年たったら出なければいけません。再び「進路」という難問に向き合うことになるわけですが、修士課程1年目の終わりごろに博士課程への進学を決めました。その少し前から当事者の方々にインタビューという形でお話を聞かせてもらうようになっていたんですが、このまま修士論文だけ書いて出て行くことはできない、もうちょっと言うと、当事者たちをネタに使って自分だけ業績を得るのはおかしいと思ったからです。そんなことをしたら、ただでさえ世の中に対する不信に苦しんでいる人たちに、さらに不信を上塗りすることになってしまうのではないか、そんなことはしてはいけないと強く思いました。

研究の原動力を一言で表すなら「仁義」ですかね。この気持ちはいまでも私の核となっていて、研究を続けるモチベーションになっています。

あとは指導教員の存在も大きいです。先生には私の文章を書く力を褒めて伸ばしてもらいました。今回の新書も先生にお送りしたのですが、「相変わらず書く虫ですね」という葉書をいただいてすごく嬉しかったです。先生が私の資質に目をつけてくれなかったら、研究者として生き残れなかったでしょうね。

「聴く」ときに一番大事なのは「相手をジャッジしないこと」

私の課題は一貫して、当事者にとってひきこもるとはどういう経験なのかを明らかにすることです。そのために当事者の方々にインタビューをしてきました。本書で「聴く」という切り口を選んだのは、それが私自身の方法でもあるからです。なぜ「聴」という漢字を使っているかというと「聞く=Hear」「聴く=Listen」なんですね。Hearは「意識しなくても音が耳に入ってくる」という感じだけれど、Listenは注意して相手の言葉に入り込むというニュアンスがあります。私の仕事は相手を理解することなので、「聴」を使っているんです。

私の仕事は「いま目の前にいるこの人は、いかようにしてこうなったのか」ということを腑に落ちるところまで再構成することです。それが相手を理解するということだと考えています。インタビューをさせてもらったとき、逆に相手からお礼を言われたことが何度かあります。別にアドバイスをしたわけでもないんですが、むしろアドバイスをしないことが大事なのかなと思うようになりました。アドバイスなんてしなくても「相手が何をしたいのか」「この話はどういう意味なんだろうか」といったことを考えながらじっくり聴いていると、それが話し手の力になるんだな、と。理解するように努めることが「いま自分が何に苦しんでいるのか」「何をされたら喜ぶのか」を、その人が自分で考える手助けになるんでしょう。

これは本書でも触れていますが、当事者の「本音」に聴こえるものが、実は聞き手が望むものを察知してでき上がったものだということもあります。当事者の語った内容をそのまま素朴に受け止めようとすると、聞き手が都合よく「本音」をピックアップすることにもつながりかねません。しかし、相手の話していることが「本音」ではなさそうだからといって、それを訂正したり追及しなくてもいいのではないかと思います。

インタビューをしていると、これは本音なのかな?事実なのかな?と首をひねりたくなる場面もたまにあります。「うそ」とは何なのか社会調査論の授業で考えるにあたり、「ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日」という映画を大学の授業で使ったことがあります。ネタバレになるのでここでは詳しく話せませんが、その人がなぜ話を盛ったりうそをついたりしたのか、そうすることで何を伝えたかったのか、どんな自分を見せたかったのか、それを探っていくことのほうが重要だと思います。相手の話していることが本音や事実かどうかということはいったん置いておいて、いま目の前に見える、聴こえるものが「その人自身」だという前提で聴くように心がけています。

こうした「聴く」姿勢を一言でいえば、「相手をジャッジしない」ということになります。相手を勝手に評価しないよう努めることが大切です。「相手をありのままに受け入れないといけないでしょうか?」と聞かれることがありますが、この質問そのものが、相手をジャッジしていますよね。受け入れるも何も、その人はいま生きているんですから。

ただ、こんな理想的な聴き方はなかなかできません。「自分もできればいいな」と思っているほどで、私自身が「こんな風に私の話を聴いてほしい」と思っている裏返しでもあります。それでも「聴く」ことに注力していると、どんな話も面白く聞こえてくるから不思議ですよ。

インタビュー後編はこちら

石川良子さん近影

石川良子(いしかわ りょうこ)

1977年神奈川県生まれ。松山大学人文学部教授。専攻は社会学・ライフストーリー研究。著書に『ひきこもりの〈ゴール〉』(青弓社ライブラリー、2007)、共編著に『ライフストーリー研究に何ができるか』(新曜社)、共著に『「ひきこもり」への社会学的アプローチ』(ミネルヴァ書房)、『排除と差別の社会学』(有斐閣)、『教育における包摂と排除』(明石書店)、『インタビューという実践』(新曜社)などがある。

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