「「ひきこもり」から考えるー〈聴く〉から始める支援論」の表紙

2021年11月に出版された「「ひきこもり」から考えるー〈聴く〉から始める支援論」(ちくま新書)の著者・石川良子さんへのインタビュー後編です。(本書の概要はインタビュー前編をご覧ください)。
後編では、現在のお住まいでもある愛媛県松山市に拠点を移してから訪れたさまざまな居場所で感じたことについて伺いました。このほか、社会問題になっている民間団体による暴力的な連れ出し行為(いわゆる暴力的支援)などにも触れています。

インタビュー前編はこちら

さまざまな居場所を訪れて感じたこと

私が、いわゆるひきこもり界隈に関わった原点は出身でもある神奈川県にあるのですが、現在の住まいである愛媛県松山市に移ってからは、そのときと比べ物にならないくらい人との交流が増えました。大学やひきこもり関係者というカテゴリーに限らず、アーティストやミュージシャン、演劇人、落語家、飲食店の店主など本当に様々な人たちと知り合いました。出歩くエリアも関西や東北に広がって、私自身が耕されて豊かになったと感じます。

山形県でお世話になった居場所では、ひきこもり経験の有無で線引きせず「意図的に」いろいろな人を巻き込んで運営していました。そこでは目からウロコが落ちることばかりでしたが、とくに印象に残っているのは、当事者とそれ以外で飲み会の会費に差をつけていないことでした。私が関わってきた集まりでは経済事情に合わせて当事者の参加費を低く設定するところが少なくなく、それがあたりまえになっていたので驚いたのだと思います。

代表の方に参加費に傾斜はつけないのかと尋ねたところ、「参加したいけどお金がないんだったら、参加費のためにアルバイトをするっていうのもいいじゃないですか」といった答えが返ってきました。就労支援では働くこと自体が目標になりがちですが、何のために働くのかという視点が抜けるとしんどくなってしまいます。何のために働くのかと言えば、たしかにお金は大きいですよね。でも、お金もただ稼げればいいというものではなくて、そのお金を何に使いたいのか、お金があると何ができるようになるのかっていうところが大事なんだと改めて思いました。飲み会に参加したいというのも立派な目的・動機ですよね。

「不要不急」という言葉のいやらしさ

ただ、アルバイトであれ何であれ「働くこと」はお金を得るための手段のひとつであって、別にお小遣いをもらうのでもいいし、公的扶助を受けてもいいと思うんです。でも、世の中では同じ額であっても「お金」にランキングがあると感じます。一番偉いのは、自分で稼いだお金。それも、アルバイトや非正規社員よりも正社員としてもらった給料の方が価値が高い。一方、一番低く見られるのはお小遣いや生活保護でもらったお金。だから、お給料を稼いでいないひきこもり当事者や主婦、それに高齢者といった方たちは肩身が狭くなるわけです。

しかも、働かずにもらったお金は外側から「見張られて」もいる。生活保護の受給者がお金の使い道で批判を受けることがありますよね。たとえば、お酒を買ったとか、パチンコに行ったとか。それはコロナ禍で喧伝された「不要不急」という言葉のいやらしさにつながると感じます。つまり、周りからは「不要不急」に見えたとしても、その人にとっては生きるために必要で大切なんだっていうことは、たくさんあると思うんです。生きていくために何が必要で何が大切なのかを本人以外が規定するっておかしいですよね。こういう構造は、お金が間に入ると見えやすくなると感じます。

「暴力的支援」は「支援」ではない

ところで、私は本書の中で「「暴力的支援」という言葉を使うべきではない」と提言しました。「暴力的」という言葉は「支援」を修飾しているわけですけど、それって結局「支援」として認めてることになっちゃってるじゃないですか。少なくとも言葉の上ではね?そうではなくて、私たちが問題化しているのは「支援の名のもとに振るわれる暴力」です。支援のふりをした暴力、それは単なる暴力です。そのことをはっきりさせなきゃいけない。これは断固としてこうした行為を拒否するためにも大切なことです。
ただ、相手がそうした暴力行為をどのようなロジックで行っているのかは気になるところです。自分たちが信じる正義のためなのか。それとも、ただお金になると思っているだけなのか。当事者の意思や人権を無視した行為は到底許しがたいけれど、暴力を振るっている側が何を考えているのか知ることは(そもそも自分のやっていることが暴力だと認識していないかもしれません)、問題解決の道筋を立てるうえで重要だと思います。

この本が「ひきこもり」に関心をもつきっかけになれば

「ひきこもり」とは当事者にとってどういう経験なのかを理解するためのキーワードとして、本書では「動けなさ」と「語れなさ」の2つを提示しています。ですから、もちろん「ひきこもり」について知りたいという方に本書を読んでいただきたいと思いますが、『「ひきこもり」から考える』というタイトルの通り、「ひきこもり」は支援のあり方や人との向き合い方など様々なことを考えるきっかけになるんだということも伝えたいですね。この本を間に挟んで「ひきこもり」に直接関心がない人たちともたくさん話したいと思っています。そして、そういうおしゃべりが翻って「ひきこもり」への関心や理解を高めることになったらいいな、と。

私は文章を書いたり授業・講演をしたりするときには、読者・聴衆を3層に分けてイメージしています。コア層・中間層・無関心層の3つで、私は中間層に届けることを意識しています。

円の中心に近い人たち(コア層)は、様々な集まりや活動に参加している当事者や親御さんをはじめ、もともと「ひきこもり」に関心や理解がある人たちです。こういう人たちは何を言ってもちゃんと聞いてくれるし、そんなにたくさん言葉を使わなくても話が通じちゃう。それが良い場面もありますが、コア層にしか分からない内輪話になってしまうと「ひきこもり」への関心を広げることはできません。

一番外側は無関心層です。関心がゼロの人たちは何を言っても聞く耳を持ってくれませんから、すっぱり相手にしない。それはもうしょうがないです。じゃあ、どこに向かって発信しているのかというと、コア層と無関心層の間です。コア層に近いところほど関心が高く、外に行けば行くほど関心が薄くなっていく、グラデーションのイメージですね。だから、中間層のなかでもとくに無関心層とすれすれのあたり、うっすら色づいているぐらいのところにボールを投げるような気持ちで書いたり話したりしています。

本書ではひきこもり当事者だけでなく、非当事者にも通じることを書いたつもりです。コア層を分厚くしていくことも必要ですが、そこは当事者発信におまかせすればいいと思っているところがあって、無関心層と中間層の境界線を外側に広げていくのが自分の仕事だと思っています。

ひきこもりに対する関心の持ち方のイメージ図

いまは「ひきこもり」に関心がないという人も、どんなタイミングで関心層に近づいてくるかわかりません。理不尽な目に遭ったとか、仕事がなくなったとか。もしかしたら「ひきこもり」になるかもしれない。ただ、「誰もがひきこもる可能性がある」っていうのは、「ひきこもり」と自分をつなげて考える回路としては弱いですよね。自分が実際そういう境遇にならない限りは、何事も対岸の火事でしょう。そんなものだと思いますよ(笑)でも、本書で触れたように私自身が父親の死によって当事者とのつながりを明確にできたように、何が「ひきこもり」を自分ごととして考える回路を開くきっかけになるかはわかりません。人生は本当に何があるかわからないですからね。

石川良子さん近影

石川良子(いしかわ りょうこ)

1977年神奈川県生まれ。松山大学人文学部教授。専攻は社会学・ライフストーリー研究。著書に『ひきこもりの〈ゴール〉』(青弓社ライブラリー、2007)、共編著に『ライフストーリー研究に何ができるか』(新曜社)、共著に『「ひきこもり」への社会学的アプローチ』(ミネルヴァ書房)、『排除と差別の社会学』(有斐閣)、『教育における包摂と排除』(明石書店)、『インタビューという実践』(新曜社)などがある。

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