人通りの絶えない夜の池袋。賑やかな街に佇む老舗の喫茶店にて、ドイツ人で比較文化学の研究者であるロビン・ヴァイヒャートさんと日本人で社会学者の関水徹平さんを交えた対談を企画しました。
この対談のテーマは「日本とドイツのひきこもりの比較」でしたが、いざ対談を始めてみると……本題へ進む前に話は意外な方向へ!?まるで論点をチューニングするかのように、「ひきこもり」の意味を確かめることからスタート。議論はどこへ行き着くのか……。ざっくばらんだけれど真剣な対話をお楽しみください。

※この記事の内容は、対談者個人の感想をまとめています。

日本人は何から「引いて」何に「こもる」のか

(ロビン)私は日本に来て12年ですが、まだ日本の状況に詳しくないので関水さんにはいろいろ教えていただきたいと思っています。テーマは「ひきこもり」ということでよろしいですか?

―ドイツ人から見て、日本の「ひきこもり」という状況がどう見えているのか教えてください。関水さんはドイツに行ったこともあるそうですが、ドイツに行った日本人と、ドイツ生まれのドイツ人とでは印象が違うんじゃないかと思いまして。

(ロビン)それならば、まず「ひきこもり」の概念について2つ知りたいですね。
一つは、社会学という領域から見た「ひきこもり」について。もう一つが、日本の「ひきこもり」は、いったい何から「引いて」何に「こもって」いるのか、ということです。日本とドイツを比較するための大事なポイントだと思います。

(関水)社会学から見たひきこもりについて、ですか。難しいですね……。はじめに私のひきこもり概念の捉え方について話しをすると、私がひきこもりを研究したきっかけは、「こんな理不尽な社会でどう生きたらいいのか」というひきこもり経験者の方の問いかけに深いシンパシーを抱いたことにあります。大学院生のときは、現代社会の孤立やコミュニケーションの難しさが社会問題化したものとしてひきこもりを捉えていて、共感から出発して自分もこの問題を研究しようと思ったんです。

その後ひきこもり当事者や家族が集まる会に参加するようになったのですが、そこで驚いたのは会に来ている人がさまざまな理由でひきこもっているということでした。仕事がしんどくて辞めたとか、学校でいじめられたとか、辛いときに親がサポートしてくれず親への怒りを感じ続けているとか、いろいろな事情で、家族以外の社会とのつながりがうまく見つからない。はじめは抽象的な疑問からこの問題に取り組み始めましたが、いろいろな当事者の話を聞けば聞くほどひきこもりとは何なのか分からなくなってくるんですね。その意味で、ロビンさんがおっしゃった何から「引いて」何に「こもる」のかという疑問はとても示唆的だと思います。

(ロビン)会に参加していた当事者はそれぞれ違う理由でひきこもっているという話がありましたね。それだけ多様な人が「ひきこもり」という1つの言葉のもとに集まるのはなぜですか?

(関水)ひきこもりは「生きづらさ」という言葉とセットで語られる側面があります。学校や会社というレールに乗って生きなければ普通に暮らす見通しが立たないという現実があり、学校や会社というレールの上に居続けなければならないことが苦しい、またはそういうレールに乗れない、ということに「生きづらさ」の根っこの一つがあるのではないかと思います。

ひきこもる背景や経緯は人それぞれ違うのですが、それが長期化するメカニズムには共通点があると言われています。それが「家族」というユニットの作用です。社会から孤立した個人を家族が抱え込んでしまうというメカニズムが存在し、そのためにひきこもりが長期化するということが指摘されています。
そう考えると、ひきこもりは何から「引いて」何に「こもる」のかという疑問については、学校や会社といったものから「引いて」、家に「こもる」ということが、日本でのひきこもりの一般的な理解の仕方だと言えるかなと思います。
日本では個人よりも家族という単位の方が、人々の生活のベースになっていると思います。家族の扶養義務を強調する民法など、さまざまな法律にもそれが表れていると思います。そのため、学校や会社から「引く」(ドロップアウトする)と、家に「こもる」しかないという状態に陥ることが多いのです。

(ロビン)「いじめ」や「不登校」 の問題がしばしば「ひきこもり」の問題と関連付けられて議論されているんですよね。いじめられた経験をもつ芸能人とか不登校の当事者が取材されたりしていて、「学校に行きたくなければ行かなくていい」という考え方が浸透しているような気がします。社会的弱者への配慮や思いやりがあるように感じますね。それと比べてドイツでは理解が浅いのかなと思いましたが、一歩引いて考えてみたら、ドイツではこうした日本の状況に対して少し違う捉え方をするかもしれないとも思いました。

一つは、いじめ経験や不登校の当事者がフォーカスされるのは良いのですが、学校のあり方はどうなのかという疑問です。不登校の要因になるかどうかわかりませんが、「体罰」「校則」「部活」「体育会系」「制服」「男子校」「男子チームの女子マネージャー」「受験生を狙った痴漢」……それらの発想自体が性差別的であったり暴力的であったりして、教育現場というよりは軍隊組織を思わせてしまいます。
体罰は以前より少なくなったようですが、そういう発想が当たり前だと思われる部分がまだ多いと思います。例えば、私の教えている学生が、アフガニスタンの女の子たちが学校に行けないというニュースを取り上げて発表したことがあります。女の子たちを学校に行かせないのがひどいという内容なんですね。なぜひどいかというと、学校が「社会」に必要なマナーとルールを学ぶ大事な場だからだと言うのです。でもタリバンにとって、女の子がヴェールをかぶって学校に行かないことが社会のマナーとルールなわけですよ。つまり、その学生にとって学校が意味しているものは、アフガニスタンの少女にとってタリバンが意味しているものと同じです。発表を聞いて、そのような学校には私なら通いたくない、と思ったわけですね。

もう一つは、「社会」という言葉に対する認識です。日本語では「社会に出る」という言い方をしますし、「社会人」という不思議な概念もあります。「社会」という言葉は英語からの訳語なのに、「社会人」という言葉は英語にもドイツ語にも存在しません。ドイツでは、「家」「学校」「社会」を確固たる個別の領域としてはあまり考えないと思います。学校は、病院と同じように社会が必要とする公共施設だという認識があると思います。成人と未成年はもちろん区別しますが、学生が社会に属していない「社会人」でないということは誰も考えていませんし、スポーツのクラブのように学校以外にも社会的なつながりがあるはずです。また、「社会に出る」とも言いません。
ですから、社会に「出なければ」、そのまま「ひきこもる」しかない、という論理も、言葉のレベルで成立しないのです。逆に言えば、不登校が実際に起こるとそれが「社会」の問題として捉えられるということでしょう。

それはつまり、就学義務が保護者の責任とされるだけでなく、「社会」の一員でもある子供自身に課されます。無断欠席を繰り返すと、最初は教育相談、転校など、最後は強制就学と段階的に厳しくなる措置が設けられます。

日本からみると、これこそ暴力的ではないかという疑問もあるかもしれませんが、特別支援学校に通う選択肢もありますし、どうしようもないから親が「暴力支援団体」に頼るという事態はまず生じないでしょう。

「Hikikomori」はなぜあまり翻訳されないのか

(関水)先ほど触れた社会保障の点からいうと、日本は、ヨーロッパのように個人の権利という観点から国が積極的に個人の自立や生活のサポートに関わるのではなく、最後の最後まで世帯で助け合ってくださいというスタンスを取っています。本来、国の中で貧困問題が起きれば、個人の「健康で文化的な最低限度の生活」をどう保障していくかについて議論されるべきだと思うのですが、それをあくまで世帯の問題、世帯の助け合いの問題として議論して、社会保障制度の不備という問題を、個人や家族の問題、あるいは文化的な問題として覆い隠すような表現として「ひきこもり」という言葉が使われているように思います。ひきこもりの人の中には経済的な不安を抱えている人が大勢いるのですが……。

(ロビン)それは興味深い話ですね。ある現象に名前を与えることにより、その中にあるはずの多様性や細かな違いが見えなくなってしまうことってあると思うんです。作られた言葉がメディアに取り上げられ、そこにばかり注目が集まってしまう。
ドイツと日本の「ひきこもり」を比較しようとしたときに、「ひきこもり」の要因は本当に両国で共通しているのかを知りたいですね。例えば「ひきこもり」という言葉は、海外ではあまり翻訳せずに「Hikikomori」と表すことが多いんです。「Anime」や「Otaku」と同様に、日本の文化的な側面として理解されていているのだと思います。

(関水)一種の「オリエンタリズム」かもしれないですね。

(ロビン)関水さんのお話を伺っていると、「ひきこもり」という概念には当事者自身を可視化できるというメリットもあれば、それによって貧困が見えづらくなるというデメリットもあるわけですね。ひきこもるという行為は現実として存在するけれど、「ひきこもり」という名前を付けたから終わり、というわけではないと思うんですよね。

(関水)その通りだと思います。だから、ひきこもりという概念が日本社会の文脈の中で何を期待されてどういう機能を果たしているのか、という分析はすごく大事だと思います。

いつまでも終わらない「親」の責任

(関水)ドイツでは、働きづらさを感じる人にとって、働くハードルは以前よりも上がっていると思いますか。

(ロビン)どうでしょうね。日本では大学生の「就職率」が若者が置かれている状況の指数として使われることがありますが、ドイツでは労働者や技術者が不足しているということがずっと前から言われています。日本と同じような学歴社会とはいえ、若者が大学に行かなければ就職できないということはないと思います。職業訓練を受けられる道が常に開かれているのではないでしょうか。

(関水)日本で職業訓練というと、これまでは正社員の社内研修や、失業者が雇用保険のサービスとして利用できる教育訓練が中心で、職業訓練を受ける機会が誰に対しても開かれているとはいえない状況がありました。非正規雇用や若年無業者が増加する中で、少しずつ変わってきてはいますが。高校であれば工業高校や商業高校がありますが、そういう職業教育を専門的に受ける教育課程に進学するキャリアも一般的ではありません。そのうえ、大学に進学するとなると多くの場合親が学費を出さなければならないので、親の所得や考え方によって教育を受ける機会が左右される面もあります。人生のベースが家族にあるという問題がここにもあると思います。

(ロビン)先ほど、労働者が不足していると言いましたが、その一方で、長期的に仕事に就かない層が一定数あるのも事実です。歴史的に見ると、戦後の高度経済成長期は失業率がゼロに近かったのですが、1970年代のオイルショックや産業の構造転換以降、失業率が次第に伸びてしまいます。1980年代末、すでに失業者層の3割近くが長期的(一年以上)に仕事に就いていません。1990年代以降は※「ポスト工業社会」 といって、生産手段が設備や機械だったものがヒトの能力に替わっているんですね。そこで、資格を持っていない、職業訓練を受けていないという人たちの受け皿がなくなります。ジョブセンター(日本でいうところの職業安定所のような機関)で短期的に低賃金の仕事に派遣されても、正規雇用されず安定した収入を得ることができません。資格が必要ない仕事でも、資格のある人が優先的に雇われます。そこで労働人口から脱落して、完全に生活保護に頼る層が出てきます。

ドイツでは、働きづらさより、働けない「辛さ」の方が問題とされる気がします。生活保護を受ければ、経済的には貧困状態から抜け出しているですが、長期的な失業状態はアイデンティティの喪失、精神面や健康面でのダメージ、場合によってはアルコール依存症など、さまざまな問題の原因になります。働けない親の元で育つ子どもが生活保護受給以外の未来像を描けないことにもなりかねません。それが社会的かつ文化的な貧困状態だとは言えます。このような貧困状態からとても抜け出しにくい状況に置かれているのは、「ひきこもり」と一緒なのかもしれません。ただ、いち個人として家族以外との社会的なつながりを絶たれ、孤立しているということではありません。

―ドイツでは「ひきこもり」という概念を規定するものがないのでしょうか?それとも、生活保護を受けている人が社会と接点を持っているので「ひきこもりではない」ということなのでしょうか。

(ロビン)日本の場合、生活保護の受けにくさもあるかもしれないし、世間の偏見もあると思いますし……。ドイツでも偏見がないわけではないんですが、福祉国家だから奨学金や失業手当やコロナ禍の給付金など、国から何らかの支援を受けるのは当たり前だという認識があるので、その中で生活保護がそれほど特別視されることはないと思います。

(関水)ドイツのソーシャルワーカーの方にインタビューをして驚いた話があって。ドイツでは25歳以上かつ個人の収入が基準以下で、働きづらさについて医師の診断があれば、誰でも生活保護のような給付や住宅手当を受け取る対象になるそうですね。つまり、親の収入は基本的には関係ないということです
日本では子どもが働きづらい場合、親がその子どもの生活の面倒を見る関係に年齢の区切りがないですよね。何歳になっても親は親として、成人した子どもの生活を見る責任がある、という考えが法的にも示されています。

(ロビン)それがとても重要なポイントですね。先ほどの、何から「引いて」何に「こもる」という問題にもう一度戻ると、仕事や人間関係が辛くて、そこから身を「引く」人はドイツにももちろんいるわけです。また、布団の下に潜り込む子どもみたいに、「こもりたい」という衝動は人間が皆共有していると思います。しかし、「引く」ことと「こもる」ことが連結して「引きこもる」という形で凝結することは必然的ではなくて、法制度などそれなりの要因があるということですね。

※ポスト工業社会
以下のページをご参照ください。
https://www.mhlw.go.jp/shingi/2004/07/s0720-1c.html

「ひとり空間」と「自分の部屋」

ひとり空間の都市論
南後 由和
発行:筑摩書房

(ロビン)今まで話したのは「労働環境」や法制度における「家族」と「個人」の問題でしたが、他にも「空間」「コミュニケーション」「ジェンダー」……これらも考えないといけないですよね。

―「空間」とはどういうことでしょうか?

(ロビン)最近、南後由和さんという社会学者の発表を聞いて「ひとり空間」という言葉を知ったのですが、これについて調べてみると……もう面白いと言うしかない(笑)画像を検索してもらうとすぐにイメージできると思うのですが、家の中にネットカフェのような空間を作るグッズが販売されているんですよ。南後さんによると、日本は元々「ひとり空間」が好まれていたが、特に2000年代以降にこうした空間が増えたそうです。カプセルホテルやネットカフェだけでなく、カラオケボックスや飲食店、女性でも一人でいられるカフェとか……。
先日、3年ぶりにドイツに帰って一番驚いたのは、自動販売機や公衆トイレの少なさです。ドイツでは家をベースにしないと移動できません。その点、日本は移動しながらひとりで生活できるわけです。少なくとも都市部にはそのインフラがあります。マスクをしてイヤホンをつけて帽子をかぶって、家の外にいても世界をシャットアウトして完全に孤立できるんですね。その一方で「家」にひきこもる人が非常に多い。

(関水)ドイツでは「自分の部屋」は大事なものなのですか?

(ロビン)自分の部屋があるというのは一般的でしょうし、そこで自立した自分の空間を与えられるという感じがしますね。ただ、日本とは住宅事情や都市の密度などが違うせいもあるでしょうが、「部屋=アパート」ではないので、若者が大きなアパートをシェアして共同生活することもよくあります。それと、一人になれる「自分の部屋」が大事にされても、そこは友人が遊びにきて、知り合いが出入りして、人が集まってもいい場所でもあるのかなと思います。実際に誰も来なくても、社交的な場所として考えているのではないかと思います。恋人くらいしか立ち入らずに隠れられる、「社会」から隔絶された絶対的にプライベートな空間とは想定されていないかもしれません。

私は日本に住んで12年になりますが、日本人の家の中はあまり見たことがないんです。会うときは、どこかの居酒屋とかに集合するんですよ。あと、コロナになってからは多摩川を散歩しながらとか(笑)。親しい友達が少ないせいだと言われればそれまでですが。
でも、銭湯では皆裸になりますよね。「私」と「公」の領域の空間的分配、あるいはそれに関わる社会的想像力が異なるのは確かだと思います。日本は「広場」が少なく、「通路」の文化だという話もありますね。祭りで集まって行進することがあっても、留まることはありません。留まる場はマクドナルドやスターバックスみたいな商業施設しかないように思えます。

(関水)私は家族に依存している状態が長期化するケースをひきこもりのエッセンシャルな問題として見ているけれど、ドイツの方にひきこもり問題について聞いたところ、「年金暮らしの高齢者がひきこもり状態なんだ」という話をしていたんです。そういうものを「ひきこもり」と表現しているのは、日本と少し違うのかなと思いました。日本には「世間」という言葉がありますが、家の外では自分は「世間の一部」という感覚があるのかもしれません。だからこそ、公共空間で匿名性というか「ひとり空間」を確保することが自分らしさを確保することになるのかな、と。家族の中でも「世帯の一部」で、そこでも結局、自分らしさを確保するには、個室、ひとり空間を作って、こもるしかない。ドイツでは個人が他人には干渉できないプライベートな存在であることは前提であって、そういう個人が他の個人と関わりがなくなっている状態がひきこもりのイメージになるのかもしれない。「ひとり空間」を持たないと、自分自身がプライベートな存在、他人とは違う個人的な存在だという感覚を保てないという事情が、さっきロビンさんがおっしゃった「ひとり空間」が好まれることの背景にあるのかもしれない、とお話を聞きながら考えていました

世界的ベストセラーの小説が描くひきこもり

ー今回のテーマに合いそうな資料として、事前にロビンさんにご紹介いただいたのが小説「コンビニ人間」です。

18年間、コンビニのアルバイトだけをしてきたという36歳彼氏ナシの女性を主人公にした作品ですが、家族や周囲が求める「普通の生き方」がわからずに「コンビニ」をある種の居場所にして生活をしています。
そこへ、ある男性が婚活目的でアルバイトとして入ってくるのですが、彼はその環境に馴染めず退職。その後、紆余曲折あって女性と男性の共同生活が始まるものの、男性が女性に寄生しようとして異様な人間関係を築いていく、という内容になっています。

コンビニ人間
村田 沙耶香
発行:文藝春秋

(ロビン)この小説の主題はタイトルの通りコンビニですが、物語は「ひきこもり」とも関係があると思いました。ポイントになるのは「結婚」と「ジェンダー」です。

この作品をジェンダーの視点から見ると、日本社会の現状を映し出しているように見えますね。つまり、男性優位の社会で結婚をするのは自然発生的な行為なのではなく、社会が「自然」としながら外部から強制している行為であって、それが政治的な背景のもとで「家族」を維持しようとしている。あの物語にはとんでもない皮肉が含まれていると思います。そうして「自然」で「普通」なものと社会でみなされている「家族」が、ひきこもり当事者にとって葛藤の場であることも大きなポイントです。

(関水)私もずいぶん前に読んだので記憶が曖昧なところもあるのですが、結婚や家族という点にはあまり注目していませんでした。システムの中で自分を成り立たせるというあり方が現代の日本的なものだという理解でしたね。主人公がハリボテのように自分を作っていくのですが、「それがあるべき自分、本当の自分なんだ」という解釈をしているのが面白かった印象があります。

(ロビン)翻訳者と著者の対話を聞く機会があったのですが、海外ではあの男性が「最低なヤツだ」というふうに言われるらしいんですよ。日本では、ある意味で理解を示す人もいるんじゃないかな?

(関水)そうですね。あの男性は確かにミソジニーでひどいけれど、ミソジニーで社会的な弱者という役割を引き受ける以外に社会の中で生きる術がない、そういう風に描かれていると感じます。その意味で、あの男性もハリボテのように、弱者としての自分を作っている。そういう男性のあり方についての評価が、海外と日本では違うのかもしれない。

(池袋の喫茶店にて)

関水徹平(せきみず てっぺい)
1981年神奈川県生まれ。立正大学社会福祉学部准教授。専門は福祉社会学・現象学的社会学。著書にA Sociology of Hikikomori (Lexington books, 2022)、『「ひきこもり」経験の社会学』(左右社、2016)、論文に「社会政策パラダイムの変化とひきこもり支援施策・当事者活動」(2021)、「ひきこもり経験者による当事者運動の課題と可能性」(2018)などがある。

ロビン・ヴァイヒャート
ドイツ出身。一橋大学大学院博士後期課程満期退学。法政大学などで非常勤講師として勤める。専門は表象文化論、比較文化学。
日本語の論文としては、「動物を訳する、文化をかく-ールーズ・ベネディクトにおける隠喩と引用の関係について」がある。

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