皆さんこんにちは!前回より、投稿まとめと支援者や有識者の方などのコメント頂くスタイルとなりました、新生「まとめてみた。」 、いかがでしょうか。
「言ってみた。」では、投稿してきて下さる方それぞれの事情がうかがえますが、ひきこもりという状況だけではでない悩みを抱えてらっしゃる方も多いようです。
今回はそんな投稿に焦点を当てて、まとめてみました。まずは・・・
>「セクシュアルマイノリティのひきこもり」 セクシュアルマイノリティ(※同性愛者等、非性愛でない異性愛者以外の人の意味。以下LGBT)のひきこもりの 調査がなされてほしいと感じてます。相談をしようと思っても、果たして性的指向や性自認、ジェンダーは想定されるんだろうか?と考えたり、相談にはカミングアウトの壁が関わってくるため、相談に踏み出せなかったり。ひきこもりに関する本を開いても、LGBTのケースは見当たらず。LGBTのクローゼット (大雑把には「カミングアウトできないでいる状態」)は、社会参加維持状態だったとしても、その精神状態はひきこもり並みの生き難さだったりします。異性愛男性のひきこもり支援については材料が揃ってるようには見るけど…。 https://hkst.gr.jp/opinion/2057/
セクシャルマイノリティとひきこもりについては、確かに公的な調査は見当たらないねー。
さてさてちょっとここで解説。まずセクシャルマイノリティとは・・・
性的(sexual)少数者(minority)のこと。性的少数派、ジェンダー・マイノリティ、性的マイノリティとも言うらしい。
レズビアン(Lesbian)ゲイ(Gay)バイセクシュアル(Bisexual)トランスジェンダー(Transgender)の頭文字を取った略語なんだって。
セクシュアルマイノリティとLGBTは混同されがちだけど、セクシュアルマイノリティはLGBT以外にもいるから似てるようでちょっと違うらしい!
情報が少ない中で、ひきスタで情報交換を試みようとしてくれた方もいらっしゃいますねー。
>「引きこもりのゲイはどこに?」 知人と一緒に引きこもりのゲイ・バイ男性のサークルを作ろうとしています。既存の引きこもり団体ではゲイがいづらく、かといってゲイコミュニティも出て行きにくいので、こうした重複マイノリティはより多くの困難を抱えていると思われます。 何か情報をお持ちの方はおられませんか? https://hkst.gr.jp/opinion/4384/
>「タカタカさんの書き込みを読んで」 私もゲイで引きこもりです。最近は発達障害と診断されたので、なんとか一歩を踏み出そうと、それぞれの自助会に 参加しているのですが、引きこもりの自助会ではセクシャルマイノリティの事は話せず、ゲイの自助会では引きこもり(+発達障害)の事は話せず、結局心に秘密を抱えたまま参加しているので、とても寂しい思いをしています。 https://hkst.gr.jp/opinion/4388/
マイノリティの団体にいても、ひきこもりの団体にいてもどこかしら全てを打ち明けきれない寂しさを抱えている、というような。
セクシャルマイノリティ以外にも、宗教とひきこもりについて投稿してきてくれた方がいたよ。
>「宗教によって呪縛される引きこもり状態」 家が宗教施設。親が宗教家。私自身、物心つく前から信仰を与えられ、数十数年もがいてきた。 日本ではメジャーではない宗教の信仰を与えられて育つということは、他の人達と相当違った感性に仕立て上げられることでもあり、他の子とは全然違う育てられ方をされることでもある。 私は結局信仰を棄てたが、実家にいる以上この宗教の家によって苦しみは悪循環されており、引きこもり状態でいてもいなくてもただただ苦しい。 たとえば外に出て誰かと交流してみても、棄てたとはいえ物心ついた時からずっと習慣にされてしまったこびりついている感性は決して剥がれ切らない。ざわつく、かつての信仰の習慣。 自分が引いてしまえばいいこと、自分が閉じこもればいいこと、黙って犠牲になればいいこと。これが宗教によって醸成されてしまった果ての引きこもり状態。 引きこもり状態になる事と、親が与えた信仰という呪いは、引きこもり状態に陥るには、恐ろしく相性がよかったのだ。 同じような仲間がいないかと探すと、それなりにいはするものの、やはりみんなバラバラに悩むしかない状態のように思える。おおむね無宗教と言える日本において、宗教で悩まされて引きこもり状態にならざるを得ないものは、一体どこに行けばいいのだろうか。 支援さえもキリスト教の信徒の方が信念に基づいてやっていたりする。逃れられない呪縛を感じて踏みとどまる。 https://hkst.gr.jp/opinion/4232/
この投稿を読んで、自分のエピソードを語ってくれた方もいらっしゃいました(https://hkst.gr.jp/opinion/4241/)
ふーむ。「他の子と違う」、「普通と違う」、そういった状況が恐怖心となって、ひきこもる要因となってしまっているのかな。
>「視力矯正の悩み」 東京都在住の三十代の男性です。 私は長い間、視力矯正に悩み、何度も眼科、眼鏡屋、コンタクトレンズ屋に行きましたが解決策が見つからず、社会生活が困難な状況にあります。 完全に自宅に引きこもっているわけではありませんが、長いあいだ仕事に就いておらず不規則な生活を続けてきたため、今後就労や、それ以外の方法で生きる道を探す活動も難しい状況です。 視力矯正の問題は、ひきこもり界隈の問題として扱われづらく、医療や福祉の領域からも外れてしまうため、声をあげるのが難しいです。 同じように、視力矯正など、社会参加や生活が困難であり、かつ制度や一般的にひきこもりについて語られている問題から外れていると感じている方々はどれくらいいらっしゃるのか知りたいです。 とても切実に悩んでいます。 https://hkst.gr.jp/opinion/4337/
ひきこもりであると同時に、別の悩みも抱えることの大変さがうかがえるよ。
「ひきこもり」という言葉で一般的に語られる部分と、また違った形の悩みもある。それを認知して理解してもらうということは案外進んでいないのかも。
例えば冒頭で紹介したセクシャルマイノリティは人口の3~5%の割合で存在するという調査があるそうだよ。宗教や視力矯正も決して特別な話ではないし、もっと身近なものとして考えることが出来る問題だね。
ひきこもりはひきこもり。マイノリティはマイノリティ。そうしてきっちり分けて考えることも、よく考えてみると不自然なことかもしれないし・・・
それでは石川さんから、「ひきこもりとマイノリティ」について、コメントを頂きたいと思います。(長編ですが、必見の濃厚な内容!)
“「ひきこもり」と●●●”という論じ方の難しさ
これまで「ひきこもり」をめぐる議論では、皆さんが投稿してくださったようなセクシュアルマイノリティや障害、宗教といった様々な問題が真正面から取り上げられることは、ほとんどありませんでした。これはどうしてなのでしょうか。このことには“「ひきこもり」と●●●”という形で論じるのが難しいという、「ひきこもり」の問題設定の特徴が関わっていると考えます。
厚生労働省は「ひきこもり」を「さまざまな要因によって社会的な参加の場面がせばまり、就労や就学などの自宅以外での生活の場が長期にわたって失われている状態」と定義しています(1)。この「様々な要因」には上で述べたような問題も当然含まれるはずです。しかし、これらはあくまで●●●の問題として議論や支援の対象になり、「ひきこもり」とは別枠で扱われがちです。
別の言い方をすれば、「ひきこもり」は“●●●のために引きこもらざるを得ない”というふうには語ることができない、どうして引きこもってしまうのか本人にも周囲にもよく分からない(どちらかと言えば、周囲にとって納得しやすい要因・理由が見当たらない)、いかなる●●●の問題からもはみ出てしまう、そういう問題として捉えられているのだと思います。
一例を挙げれば、内閣府が2010年に行った「若者の意識に関する調査(ひきこもりに関する実態調査)」では、妊娠や家事・育児によって引きこもり状態にある人は「ひきこもり群」から除外されています(2)。妊娠・子育てによる孤立は、あくまで妊娠・子育ての問題として育児支援でカバーすればよい。そう考えられているのでしょう。
何でもかんでも「ひきこもり」という看板のもとに集めてしまうと問題の焦点がぼやけ、支援がぶれてしまう。そういう側面があることは否定できませんし、従来はこの観点から様々な●●●が斥けられてきたように思います。しかし、今回ピックアップされた投稿は、“これは「ひきこもり」、これは●●●”という支援や議論のあり方に鋭く疑問と批判を突きつけてきます。
それでは、今後どうしていけばいいのか。私はその答えを今は持っていません。ひとつには、「ひきこもり」が社会問題として認知されてから10年経った今この時期に、こうした声が上がってきたことの意味を考えていく必要があると思います。ですが、そういうこと以前に重要なのは次のことです。
誰しも様々な事情と思いを抱えながら生きているということ。そして、どのような事情も本人にとっては切実なものであるということ。このことへの想像と配慮を欠いては何事も成しえない、と強く思います。
(1) 2003年に公開された「10代・20代を中心とした『ひきこもり』をめぐる地域精神保健活動のガイドライン」での定義。この定義は2010年公開の『ひきこもりの評価・支援に関するガイドライン』にも基本的に引き継がれています。各資料は下記でダウンロードできます。
【2003年版】http://www.mhlw.go.jp/topics/2003/07/tp0728-1.html
【2010年版】http://c11vgh65.securesites.net/pdf/jidouseishin/22ncgm_hikikomori.pdf (リンク切れ)
(2) 内閣府調査の報告書は下記でダウンロードできます。 http://www8.cao.go.jp/youth/kenkyu/hikikomori/pdf_gaiyo_index.html
なお、「ひきこもり」は基本的に男性の問題だとみなされています。これは、引きこもっているのは男性のほうが多い、ということではありません。同じ状態にあったとしても、男性のほうが「ひきこもり」として問題化されやすい、ということです。女性の場合は「家事手伝い」という別のカテゴリーに括られがちだということは、よく言われてきました。これまで手薄だったジェンダーの視点を取り入れ、改めて「ひきこもり」について考えていくことも必要だと思います。
「ひきこもり」とセクシュアルマイノリティ
このところ「ひきこもり」界隈では、とくにセクシュアルマイノリティへの関心が高まっているようです。今年1月に行われた「ひきこもり超会議」でも、参加者の方から発言がありました(【ダイジェスト動画】本音で語ろう!ひきこもり超会議 https://hkst.gr.jp/housou/4542/)。
この問題に関して、私は次のように考えています。
まず前提として言わなければならないのは、私たちは異性愛を“自然”とみなすような社会に生きている、ということです。このような社会では、同性愛者などのセクシュアルマイノリティは差別・抑圧の対象になります。
今これを読んでいて「自分はセクシュアルマイノリティに会ったこともないし、差別した覚えもない」と思った方がいらっしゃるかもしれません。おそらくそう感じるのは異性愛者だと思うのですが、本当に「会ったことがない」と言い切れるでしょうか。
異性愛社会では、セクシュアルマイノリティは“いないも同然の存在”として扱われます。異性愛者の多くは目の前にいる人の性的志向をいちいち考えたりしません。また、自分が異性愛者だと意識することも殆どありません。そういうことが意識に上ってこないほどに、異性愛は“ふつう”で“自然”だとされているのです。
たとえば、おしゃべりしていて「好きなタイプは?」と尋ねたとき、相手が男性であれば「好きな女性のタイプ」が語られると当たり前のように思う(というより自分がそう思っていることにさえ気づかない)。会話が違和感なく進んでいけば、その人を異性愛者としてわざわざ認識することもない。ですが、ひょっとしたら相手は話を合わせているだけで、実は異性愛者ではない可能性も大いにあるはずなのです。
「会ったことがない」と言い切ることは、セクシュアルマイノリティを“いないも同然の存在”として扱うことに他なりません。北海道の投稿者さんの書き込みは、このような扱いによってどれほどの苦しみと痛みがもたらされるのか訴えかけてきます。さらにタカタカさん・こころさんの投稿からは、「ひきこもり」の集まりも異性愛社会そのものであり、セクシュアルマイノリティかつ「ひきこもり」の当事者である人々にとっては安心できる居場所にならないことが伝わってきます。
ただし、ちょっと唐突に思われるかもしれませんが、「ひきこもり」とセクシュアルマイノリティは根っこではつながっている問題だと私は考えています。どういうことか。キーワードは“一人前”です。
自分で稼いで生計を立てられるようになる、親元を離れる、結婚する、子どもができる――。このうちのどれか1つ、もしくは全てを達成したときに“一人前になった”と認められる。これが日本社会の現状です。しかし、このように“一人前”を捉えている限りは、引きこもっている人もセクシュアルマイノリティの人も未熟で劣った存在として軽んじられ続けることになります。
したがって、どちらにとっても“一人前とはどういう存在か”、もっと言ってしまえば“人間の価値はどこにあるのか”といったことを問い直すことは、自分自身と折り合いをつけるうえで(ひいては生きやすい社会をつくっていくうえで)非常に重要な意味を持ってくると思うのです。
ただし、「ひきこもり」支援では今述べたような意味での“一人前になる”ことが目標になりやすく、また本人と親御さんの多くもそれを求めています。1人ひとりと話してみると必ずしもそうではないのですが、全体的には“一人前”や“ふつう”であることへのプレッシャーとこだわりが非常に強い。それが「ひきこもり」の集まりをより異性愛中心主義的にさせている側面があるような気がしてなりません。
このあたりのことを意識化して議論することは、セクシュアルマイノリティだけでなく「ひきこもり」の絶望と苦痛をほぐしていくことにもつながるのではないでしょうか。
石川良子(いしかわ・りょうこ)
2000年末から「ひきこもり」の調査研究をスタート。自助グループや支援団体に当事者として参加している人たちを中心にインタビューを行な い、「ひきこもり」とは何か、「ひきこもり」から回復するとはどういうことか考えてきた。
著書に『ひきこもりの〈ゴール〉―「就労」でもなく「対人関係」でもなく』(青弓社、2007年)。論文に「『ひきこもり』について考える/ 『私』を振り返る」(『排除と差別の社会学』第11章。有斐閣、2009年)等。現在、松山大学人文学部准教授。
石川さんの著書「ひきこもりの〈ゴール〉」を読んでみた。は、こちら→https://hkst.gr.jp/review/3248/