自己責任論を唱える人がやっているのは、結局、他人にすべての責任を押し付けることでしょう。
全ての責任と原因は自分でも社会でもなく、苦境に陥っている人だけにあり、自分も社会も、苦境に陥っている人のために指一本動かす必要はなく、苦境に陥っている人を一方的に批判し、見下す権利があるというわけです。
いつもながら、いじめの場合が一番わかりやすいと思いますが、教師が、いじめはいじめの被害者に責任がある、と言い出す事があります。
いじめの加害者がいじめなければ、いじめが起きるわけがないので、普通に考えれば理解しがたい意味不明な主張ですが、教師の立場だけから考えれば、なぜそんなことを言い出すのか理解できなくもありません。
教師からすれば、深刻ないじめ被害も被害者側に責任があるならば、自分がいじめ加害者への面倒な指導を行わずにすみ、いじめ被害者が自分で何とかすべき問題になります。
いじめられた側が苦しんでいても、「いじめられた側に問題があるんだから、いじめられた側が自分を変えるべきだ、それができないならば、被害を受けて苦しんでも自己責任なので仕方ない」と思い込むことで、自分の精神的負担も減らすことができます。
吐き気を催すような恥知らずなやり口ですが、教師の利益だけを考えるならば、確かに合理的な主張でしょう。
この薄汚い主張が、今の社会に蔓延してしまっています。
これが厄介なのは、言われた側が、下手に真面目で責任感がある人間だったりすると、「もっともなことだ、自分で責任を取って行動を起こし、自分を変革し、自分で何とかしなくてはいけないんだ。、それが社会で立派にやっていくということなんだ」と説得されてしまう場合があることでしょう。
自己責任を唱える側は、徹底的に相手のせいにし、自分や社会が行動しないための言い訳作りをしているのに、言われた側は責任をすべて引き受け、自己否定に陥るという、目を覆いたくなるような不愉快な結果になることがあります。
自己責任論による批判を受けやすいひきこもりとしては、自己責任論を唱える相手の動機や目的を理解し、自分が苦境に陥っている原因がある程度までは社会や周囲にもあることを忘れず、必要以上に責任を感じすぎず、自己否定に陥らない必要があるんじゃないでしょうか。
自分を守り、ある程度の安全を確保するのが、結局次の一歩を踏み出すための近道ではないかと思います。
神奈川県 Mugenkoutai(投稿日:2018年11月26日)
これ、身にしみてわかる。
本当の、自己責任を正しく理解してる人など、ろくにいない。
だから、人間関係で、ものすごい壁を感じてた。
「責任」などは、一部の人間に、一手に背負わせてるだけだということ。その責任のバランスが悪すぎる。
権限や権力だけはこちらで握り、面倒な”責任”はむこうへ・・・みたいなカンジか。
本来、権限(権力)と責任はイコールなのだが。
下手に、自己責任論をかぶって、がんばっても燃え尽きるだけだと気づきました。
そういう状況に対して、誰かを攻めたり、怒りをぶつけたいと思ったこともあるけど、本当にそれが、相手に伝わる気がしなかった。ヤバイ。
怒る以前に、「なんだ?この世の中は??」という、口あんぐり状態が長かったなあ。
”責任”のゴミ箱状態はかんべん。遠くのいらん責任まで吸い取っても、ロクなことないのに、ついつい痛みを感じてしまうダメ人間に成り果てちまったなあ。
虐められる側に問題があるという発言は実際ちょくちょく聞きますよね。
虐められる要因は確かにある。のかもしれません。しかしだからと言って苦しめて良い理由には決してなりません。
結局、いじめる側の身勝手な理由でしかありません。
ですが学校は隠蔽し、虐めを解決しない教師、虐めを認めない加害者など問題が多いです。
いざいじめが発覚し教師は責任をもって学校を辞めるが、しばらくしたらよその学校で教鞭をとっているというオチです。
ふざけるなという話ですよ。
私は、この掲示板の投稿読むと、「まさしくその通り」と思います。つまり
ひどい人間が、増えてるということかな。
自己責任論はなくなってしまえばいいと思います。例えば、かつあげされたとします。自分からすすんで財布を差し出したのですが、それは自己責任でしょうか?それと同じで、一見自分の意志で行動しているように見えても、それ以外の選択肢を選べなかった、あるいは知らなかった、出来なかったからそうなったのです。
自己責任論は良くないという風潮が社会に広がればいいと思います。
自己責任論を振りかざす人って自分はああならないっていう自信でもあるんでしょうかね?
今働いている人だって職を失って貧困に陥る可能性だってあるだろうに。