ひきこもりって、「問題」なの? byにゃん
二回目の投稿です。
よろしくお願いします。
ひきこもりとは、問題行動ではなく、問題解決行動である、と私は思います。
家に「ひきこもる」という事自体は、問題でもなんでも無い。
ただそれを「問題」であるとする周囲や社会の価値判断(及び都合)があるだけです。
「ひきこもる」という、周囲や社会によって「問題」とされているその行動は、実は、ひきこもる本人にとって、全く別のなにか巨大な問題があり、その問題を解決しようとするために行っている、自己流の解決行動なのではないでしょうか?
では、その本人にとっての巨大な「問題」とはなにか?
それは本人自身のこれまでの人生の生き方そのものが、そうなのではないでしょうか?
今までの自分の考え方、感じ方、世界や他者の捉え方、こうしなければいけない、こうしないと生きてはいけない、ここにいてはいけない、etc。
そしてそういうもの自体が生み出す、とてもとても重いその「生きづらさ」という巨大な問題に、意識無意識関係なく、気づいてなんとかしようとして、生きづらさと繋がるあらゆるものとの関係を、一旦すさまじい規模(と力動)でリセットし、そして全く新しい自分と世界観を生きていこうとしている。
PCでいえば、個別のソフトではなく、OSそのものを入れ替えるようなものです(別の言葉でいえば、パラダイムシフト)。
問題行動でないどころか、非常に健全な行為に私には思えます。
家に閉じこもっている期間の長短や、行動範囲の大小などの区別は全く関係ない。
私はこれをこそ、ひきこもりという、ひとつの自己の回復過程、そして己の真の問題を受け入れ解決していこうとする、本当の意味での自立的生き方なのだと思っています。
ひきこもる本人の「生きづらさ」というものは、学校に行かなければ働かなければ生きてはいけない、他人とちゃんと接しなければまともな人間にはなれない、ひきこもることも許されない、そういった現在社会に強く要請されていること、そしてそれらのものが深く自己に内面化(自分もそう思ってしまうこと)されてしまっている、というところにあるのかもしれません。
(ACの自覚などでより深く掘り下げることはできるでしょう)
「ひきこもる」という行動を問題視する、という社会の在り様そのものにこそ、実は不健全な問題があるのだと私は考えています。
これらの問題を抱えた他者(周囲や親)に、あるいはその他者が内面化された自己に自身が捕まっているうちは、なかなか自分自身の生きづらさの問題には取り組めない。
ひきこもりがとても苦しい状態(私はあれを生き地獄と呼んでます)のまま長期化するのは、主にこのパターンなのではないでしょうか?
私はその状態が7年続きました。
ゆえに本当の「ひきこもり支援」とは。
家から引っ張り出してひきこもることをやめさせて矯正することではなく(それこそ問題行動です)。
ひきこもるという自己回復の過程を安心安全に出来るようにサポートすること、そう私は思います。
ひきこもりから回復するのではない、ただ真の問題の回復のためにひきこもるのです。
ひきこもることを支援するから、文字通りひきこもり支援と言えるのです。
そんな風に、ご自身や大切な人の「ひきこもり」を語り直してみるのは、どうでしょうか?
この生きづらい社会がこれから健全に成長し直していくために、ひきこもりというひとつの「回復のコンセプト」は大きく寄与していくのではないかと、私は思っています。
神奈川県 にゃん
自分も始めは問題解決のつもりでした。時間がたてば
考えがまとまれば元に戻れると思っていました。
でも変わっていくんです。あの時先生の車に乗って学校
に行っていれば良かったと今でも思います。時間がたつと
ただの逃避行動になるんですよ。引きこもりは。
逃げて逃げて逃げて最後には何から逃げているのか分からなくなって。
それが今の自分です。
元ひきこもりのにゃんさんの意見はとても参考になります。
ひきこもりが問題かといえば、問題だと思います。
それは、働かないのに食べるということは、他者の負担が増えるということです。
このまま、生活保護受給者が増え続ければ、日本の国は財政破たんです。それに、建設、飲食、小売り業などは、深刻な人手不足です。
勿論、精神疾患等で外に出るのは無理な方は、治療に専念していただき、お休みいただければいいのですが、あきらかに甘えているだろうと思える人もいます。甘えることが許される環境にいるから、そうなっている場合もあります。
普通に働いている人も生きづらさとか辛いことは、たくさんあるけど、食べて行くためには働かざるおえないから、働いている。ACだとかそういうことを考えすぎると動けなくなり、現実逃避になる。そして、そのしわよせがまじめに働いている人たちの負担になってしまう。
どうして、「自分にこうして欲しい。」ばかりで、「自分よりもっと困っている人を助けたい。」とか、「子供の頃は当然大人に面倒みてもらったのだから、今度は後輩たちの面倒を自分が見る番。」そういう風な考えにならないのか不思議だった。私は、パソコンやテレビゲームの影響が大きいと思った。
2チャンネルでも私の悪口は書かれているけど、「そんな暇あればバイトでも探せよ
。」と言いたい。私のことをババアと呼ぶあたり、「小学生かよ。」って思う。礼儀も何もありゃしない。要は自分の正体を明かさないところで、他人を非難するなど、くだらないことで時間をつぶしている。本当に考えるべきは、自分はどう向上するかなのに。
やれないことは仕方ないとして、出来ることはあるはず。
にゃんさんは7年で脱出できて、良かったと思う。
ひきこもりが長く続くと、運動不足などから、本人が健康上辛い状況にいずれなるだろうから、早く出れるようになって欲しいという気持ちで、書き込むけど伝わらないみたい。
{ゆえに本当の「ひきこもり支援」とは。
家から引っ張り出してひきこもることをやめさせて矯正することではなく(それこそ問題行動です)。}とありますが、これも人によります。
かつて、息子を合宿型フリースクールに入れたけど、うちの子にはだめだったけど、ちゃんと進学したり、働けるようになった人もたくさんいます。また、知人の家では引きこもりの子をアパートに住まわせて、いくらかのお金を渡し、その後の援助をしないと親が言ったところ、仕事を探して働き出したという人もいます。
だから、何がいいか悪いかは、やってみないことにはわからないです。
ひきこもりの人は自分は弱者だと思って、支援であーして欲しい、こうして欲しいって他人に要求するけど、支援する側だって、決して強いわけでもない。支援者で何人か支援活動をしていて鬱になった人を知っているけど、世間でちゃんと働いている人だって、いろんな悩みをかかえた弱い人間だってこと、理解して欲しい。
(一部修正)
引きこもりから抜け出そうと相談に出掛けたりサポステに通ったりしても結局面接のまえで逃げてしまいます。今の状況から抜け出したいとずっと思いながら引きこもり続けてしまうのです。甘え、と言われる状態ですが自分自身は抜け出したいと本気で思っています。
あきらかに甘えているだろうと思える人が、明らかに甘えている、友限らないんですよ?あくまでも外からみたら「そう思える」だけだったりします。心の問題、過去のトラウマは、外からは見えませんし、赤の他人には到底わかるものじゃありませんから。目には見えない障害、壁、というのもあるんですよ。
やっぱり、ひきこもりの人生そっちのけで、社会の負担、つまり自分の負担、のほうを考えてるんですね。敏感で鋭い子は鋭いですからね。親の言葉が、親自身の自己保身から出たものなのか、それとも自分を心配してくれてる親心・愛ゆえなのか、敏感に察知出来る子は察知できます。そういう考え方が根底にあるからこそ、親として信頼されていないのでは?
自分よりもっと困っている人達を助けたい…
という気持ちをひきこもりに強要しようとするのもどうかと思いますね。当事者の私からすれば、心を開かない理由が、投稿からとてもよく分かる気がします
自分をどう向上させるか、なんてね、そんなもん多くのひきこもりや真剣に考えてますよ、言われるまでもない。伝わらないのかもしれないけど、理解されずとも、皆あがいてもがいて苦しみながら、自分と闘ってるし、進むべき道を探してるんです。
ひきこもりは働いてる人の悩み苦しみがわからない、とでも言いたげな決め付けも、どうかと思いますね。そんなの理解してますって。
逆に、ひきこもりの苦痛を理解しようとしないでしょう。ブーメランですよその忠告。働く人の苦痛を理解しろ!とひきこもりに要求する自身は、ひきこもりの苦痛を理解してないんだから。
とにかく、何もかも決め付け過ぎる。その偏見、どうにかならないんですか?それを改めてもらわないと、ひきこもり当事者の心を傷つけたりストレスになったりすることのほうが、多いような気がします
(一部修正)
キングコングさん、いっそう、レジャーバイト(住み込み)で働くとかしてみたら?
私は短大時代の夏休みに軽井沢で働いた事あるんだけど。
にゃんさんの立ち直るこたが出来たことは、本当に良かったと思うんだけど。
例えば、津波で家を失って、避難所で配給などの手伝いをせざるおえなくなって、ひきこもりから脱出した人もいるように、環境が変われば変わる場合もあるんです。
私が相談に行った小田原の先生は、にゃんさんのいう事に近いことを言っていた。けれど、静岡の先生は一端、ひきこもりに入ると、現実逃避の世界に入って、長くなれば、長くなるほど、体力も落ちるし、人と関わることが怖くなって余計出なくなると言っていた。
二人の先生は正反対のことを言っているんだけど、そのどちらにも、ひきこもりから脱出した例と失敗例がある。私は、静岡の先生のいうことに共感して、合宿型のフリースクールに入れた。息子も喜んでいたよ。けれど、お金が続かなくて。年間300万円くらいかかったから。途中で辞めさせ、私立の高校に入れたけど、行かなくなった。
親の会に行くと、ひきこもりのお子さんが50代、なんて人もいるけど一体いつまで自分探し、しているのでしょうね?一生が終わってしまいますよね。
うーん、まわりがひきこもりを尊重するか。にゃんさんはそういう周りに恵まれていた。
普通の人は、朝起きるのがつらくても仕事に行かねばならないから、起きるでしょ。
けど、ひきこもりは、好きなように起きて、好きな時間に食べて、パソコンやらテレビゲームなんかして(みんながそうとは限らないけど)、そういう人を一人前の大人とは認めにくいんだよね。
例えば、発展途上国なんかでよく見る光景だけど、悪臭ただようごみ山で空き缶拾ったりして、学校なんか行かせてもらえない環境で必死に生きているけど、日本は仕事だってあるし何がそんなに不満なの?不満ばっかり言っててもきりないよ。感謝するところから、運命は変わると思うって言いたくなっちゃう。。
ひきこもりに寄り添うって、簡単じゃない。
キングコングさん、軽井沢で住み込みのバイトをしたとき、大学のセミナーハウスで3食の食事づくりをしたんだけど、毎日のように大学生の飲み会に呼ばれて、それはそれは楽しかった。外の世界は、楽しいことだっていっっぱいあるのに、ひきこもっているなんて、哀れで悲しすぎるよ。ちょっとの勇気だよ。
はじめまして、カフェインさん。
辛いですよね、なによりも、なによりも。
私も、生き地獄の体験でした。
私は、働かざるもの喰うべからず、ひきこもりは生きる価値なし、という言葉に支配されて、毎日毎日一分一秒休むことなく自分を責め続けました。
動け、働け、諦めるな、おまえなら絶対に出来る、と、自分を前に向かせ上を目指していく言葉で頭を埋め尽くし、一体どうすればここから抜け出せるのかを死力を尽くして考え抜きました。
それでも、動かない。
圧倒的な力が、私をここに居させました。
許せなかった。
どうしても動かない・・・許せなくて、壁に頭を激しく打ち付けたり、床を殴りつけたりしていました。
逃げるな、諦めるな。
甘えるな、怠けるな、と、私の中に居座る「なにか」に対して責め苦を与え続けました。
そして、そんな私を放置する親が許せなかった。
お前たちは私を働かせたいんだろう? なのにどうしてなにもしないんだ、私はこんなに私を働かせるために死に物狂いになっているのに、
お前たちはなんでそんな目でこっちを見てるんだ、と。
なんで私だけ悪者にするんだ、と。
気付けば、自分への怒りと親への怒りがごちゃまぜになり、一体もうなにと戦ってなにを考えているのかわからなくなっていました。
私はいったいどうなってるんだろう・・・
自分が壊れていくような感覚でした、ボロボロと、ボロボロと、崩れていくような・・
なにもかもわからなくなっている自分がいるのに、それでもまだ必死にわかろうとして、考えて、足掻き続けて・・・
ある切っ掛けで、私は崩壊しました。
今までの何倍もの勢いの焦燥と不安と絶望が押し寄せ、半狂乱になりました。
たすけて
気付けば、そう叫んでいました。
たったひとり、もはや昼と夜の区別も、自分がどこでなにをやっているのかもわからない状態になり、手には包丁を握っていました。
死にたくない、だけどもう死ぬしかない。
なのに・・・
ただの1ミリとて、包丁の切っ先は動かなかったのです。
私の中にずっと居座り続けていた「なにか」が、私の包丁を握る手を留めていたのです。
そのとき、やっと、やっと、今までの人生でただの一度も気づくことの無かったことに気づいたのです。
ああ、この「なにか」こそが、私をずっとここまで生き延びさせてくれていたんだ、と。
今まで私が散々甘えている怠けていると責めてきた、「もうひとりの私」こそが、私の本当の力だった。
私は今はそれを「生きる力」と呼んでいます(心理学ではインナーチャイルドなんて言いますね)。
縁があってその後私はAC系の自助グループ(カウンセラーさんがいたので正確には援助グループ)に参加し、そこで共依存という概念を知り、
それを通して自分の今までの人生を語り直すという作業を始めました。
色々なことがわかり、そして皆の前で今まで言えなかった「自分」の話をしていくにつれ、力が満ちていきました。
そして、その力を慈しみ、見つめ、そして引き出してあげる、新しい私こそが、私を守ってくれるようになりました。
その新しい私は、かつて私を責め叱咤し続けた私(心理学ではインナーペアレンツと言います)の変容した姿。
今まで私を責めていた私が、私を守り愛してくれるようになったのです。
分裂していた私の中のふたりが和解し統合するためにこそ、、私たちは戦い、考え、逃げ、ひきこもったりするのではないかと、私は今、思っています。
はじめまして、あきさん。
私の意見を、お話しさせて頂きますね。
私は、あきさんの仰る通りだと思います。
生活保護費に限らず、非常にたくさんのお金がこういった支援や福祉には掛かります。
そしてこれからのこの社会は大幅な労働人口の減少により、大きな変革に迫られています。
私たちはその問題を考えていかなければなりませんし、それはひきこもりさんだって同じことです。
だって、この社会を担う大人の一員なんですから、当然ですよね。
では、どうしたらよいでしょうか。
一旦、話を大きく変えます。
私はあきさんが、自分も色んな悩みや苦しみを抱えた弱い人間だ、と仰っているのを見て、ああ、そうか、と気づきました。
みんな、そうなんだ。
ひきこもりも、他のいわゆる「健全」と言われている人たちも、みんな同じなんだ、と。
みんな同じく悩みや苦しみを抱えているし、私はぶっちゃけると、その苦悩の大小の差は両者には無いと思いました。
ひきこもりだけが苦しいわけじゃなく、またひきこもりが特別苦しいわけでもない(特有の苦しさはあります)。
じゃあ、どうするか。
苦しいのはみんな同じなんだから、みんな我慢するしかない?
いいえ。
苦しいのはみんな同じなんだから、みんな自分の苦しみを語り合い、そして回復を目指せばいいのです。
ひきこもりとそうでない人の違いは、自分の苦しみから目を背けられなくなっているか、そうでないかの違いしかないと私は思います。
そして否が応でもひきこもりの人達は回復のプロセスを進んでいる。
あきさんのお話からは、あきさんの壮絶な人生が私には窺えます。
戦いの連続を、勇敢に進んで来られた気がしますし、私はそれに敬意を覚えます。
きっとその生き方を必要とするほどに、あきさんにとっては恐るべき人生の道だったのでしょう。
しかし・・
その生き方はとても、辛かったですよね。
私には、あきさんのその生き方そのものが、実は現在のあきさんの苦悩を生み出しているように感じられます。
自分を追い立て、追い詰め、助けを求めない、求めても無理だ、他の人に迷惑は掛けられない、etc。
なんてつらい世界観なのでしょう、書き込みを読ませて頂きながら、私はかつての、そして今でも私の中で息づいている「壮絶な自分」を感じ、息が詰まりました。
私はこう思います。
助けを求めていいのです。
他の人は関係ない、辛いなら辛いと言っていいのです。
誰が何と言おうと、自分は助けを貰っていいのです。
どんな自分であっても、無条件に愛される資格があるのです。
助けを求めることを自分に許せないから、条件無しには自分を愛せないから、他人がそうすることが許せないのかもしれません。
息子さんはきっと、そんなお母さんの姿をご覧になってきたのかもしれません。
母を助けたいと思わない子なんてこの世に存在しません。
そして、幸せな笑顔に包まれた母親に、抱きしめられたいと思わない子も、いません。
なぜなら、そうして「幸せな笑顔」という像を、子供は皆、幼いときに親の姿から写し取り、それを自分の中に息づかせるからです。
それが子の健全な自尊心と自己肯定感を育んでいくのです。
もしかしたら、息子さんは子供の頃にそれに失敗し、ゆえにその過程を無意識ながら今一度行おうとしているのかもしれません。
もっとも、それは息子さんの問題ですから、息子さんが取り組むことでしょう。
なにも「幸せな笑顔」の像は、今の親じゃなく、他の人からでも得られますから、無理にお母さんを変えようとする必要が無いことに気付けば、その分に使っていたエネルギーを他に使えるようになります。
そして、あきさんの苦悩の問題は、あきさんが取り組むべきこと。
その多くはもしかしたら、あきさんの親との関係性に起因しているものかもしれません。
あきさんは、息子さんではなく、そのあきさんご自身の苦しみと向き合い、そこから回復する必要があると私は思います。
なにより、あきさんこそ、救われていい。
そして、そのための支援を受ける権利を、あきさんはお持ちなのです。
ご自身の精神的問題、経済的問題、きっと山ほどおありですよね、そしてそういうものに対応してくれる機関もあるはずですし、無いのならば、その必要性を訴えていいのです。
あきさんご自身を助けてくれる人は必ずいますし、なにより他の誰でもない、あきさんこそがあきさんを最も救うことが出来るのです。
私はあきさんの書き込みをいくつか拝見させて頂いてきました。
幾分考え方に「ん?それはどうかな」と思うことはありましたが、息子さんのために多くの相談機関を駆け回り、支援を求め、ご自分でも考え、行動する、とてもパワフルな方だなと私は感じていました。
すごいですよね、立派なお母さんです。
それだけの力を、あきさんはお持ちですし、そしてそのいくらかはきっと、息子さんからのギフトなのかもしれません。
だって、息子さんがひきこもりだからこそ、お母さんは色々必死に駆け回ることが出来たのでしょうからね、腹は立つでしょうけれど(笑)
そして、だから、その力を今度は、あきさんご自身に使ってあげてください。
自分のために、生きてください。
あきさんもまた、大切な、ひとりの素敵な女性なのですから。
ご自身が本当に満たされたとき、きっと、他の人達や世界の姿がそれまでと大きく変わって見えることにお気づきになられることでしょう。
ほんとうにわからなかったものがなにか、わかるかもしれません。
そうして、ひきこもりさんも、その親御さんもご自分の傷を癒すことが出来たのちに。
さぁ、この社会を、どうしてやろうか、どう立て直してやろうか、となればいいのです。
良い仕事をするには、ちゃんとコンディションを整えた自分が必要ですよね。
それで充分間に合いますし、また頂いた支援は私達の後に続く人達に返してあげればいいのです。
だから堂々と、自信を持って支援を受けていいんだよと、それが私を支えてくれている支援者の方から頂いた、温かい言葉でした。
その言葉が、私にとって最大の支援でした。
そして、これからのこの社会は、それくらいの、真実回復した本当のひとりひとりのパフォーマンスが無ければ、とても立て直せないのではないでしょうか。
もう、臭いものに蓋が通じるほど、甘い世の中ではなくなっているのだと、ひとりの社会の一員としての私の世界観を語らせて頂きました。
色々と大変失礼を申し上げました。
同じく母を持つ子であるいちひきこもりとして、あきさんと、そして息子さんの幸せを願っています。
追記:
小田原の先生というとあの人かな?(笑)
私も一度だけお話ししたことがあるのですけれど、初対面にも関わらず激しく意気投合して盛り上がったのを覚えています。
ただあそこはその代表の方は面白かったのですけれど、他の人達の対応が・・・・私的にはちょっと残念でした
ひとつだけ、失礼ついでに私のアイディアを。
ご興味無ければ、お聞き流しください。
私見ですが、あきさんがひきこもりさんの事がわからない、寄り添うのが難しいというのは、実はあきさんがあきさんご自身と向き合えておらず、またご自身を理解して寄り添うことが出来ていないからなのだと思います。
かくいう私も、以前は他のひきこもりさんはもとより、自分がひきこもりであることも絶対に認めませんでしたし、許しませんでした。
それは、本当の自分と向き合うことが出来なく、またそれは、その本当の自分を守ることが出来なかったからなのだと私は理解しています。
「世間」とか「親」とかから、でしょうかね。
それで、自分を守れない、でも生きなきゃいけない、じゃあどうするかといったら、徹底的に自分を捨てて周囲の価値観や考え方に迎合しそれと一体化するしかないわけです。
場合によっては、周囲以上にその価値観や考え方を肥大化させたりします(私がそうでした)。
そしてその価値観や考え方それひとつしかないゆえに、それに依存するしかなくなるのだと、私は思います。
それひとつしかないから、その価値観や考え方と違う人達のことが理解できないし、また、自分は自分を捨ててそのひとつのものに従うしかなかった「恨み」がありますから、自分を捨てずに自分を生きようとする人を理解したくない、のではないでしょうか。
自分を見失い、代わりに他者(あるいはその価値観や考え方)に尽くしそれ無しにはいられなくなること、これを、共依存と言います(色々な説明の仕方がありますが根本は同じです)。
共依存からの回復は、どれだけ自分が自分を見失っているのかを自覚し、それを怒り、嘆き、悲しみ、その傷ついてきた自分と徹底して向き合い、受け入れ、自分にはその自分を守る力があることに気づき、それにより彼我の線引きをしっかり行うことで成されます。
そしてそういった問題に取り組む仲間(自助グループなど)もいます。
ひとりでやることはありません。
共依存の大元にあるのは、根源的な「さびしさ」なのだと、私は感じています。
あなたが問題なのではなく、ただ問題が問題なだけなのです。(私がお世話になったカウンセラーさんにそう教えて貰いました)
ちなみに、この日本の社会は共依存的なモノに満ち満ちています(しかもそれが賛美されやすい病理があります)。
私も、筋金入りの共依存者です。
共依存にもそれなりの「必要」と「効用」があることを理解し、今は上手く共存を図りつつ、少しずつ回復を目指しています。
なにかのご参考になればさいわいです。
にゃんさん、ありがとうございます。
にゃんさんの言葉を借りるなら、今の自分は
生きる力によって必死に外の世界に出ている状況です。
いつまで耐えてくれるか分かりません。
部屋に戻れば悲しさと情けなさで人生終わらせたくなります。
二つの自分に挟まれ潰されそうな毎日です。
いつかにゃんさんのように二人が統合されればと思います。
にゃんさんがいろいろ考えてくれたことに、感謝します。3度読ましたが、わかるところとわからないところが、あります。日を変えてもっとよく考えたいと思います。
私は体が弱いから、子供が幼い時に十分甘えさせてあげられなかった。と思うんです。けど、20歳なので、今さら、抱きしめても嫌がられるのでできません。
正直、親子関係はよくないです。夫は「反抗期だから、そのうち、変わる。」と言うので、様子をみるしかありません。
私が、息子と同じ20歳の時、健康食品のお店の店長として、働いていました。そして、休みの前日は六本木などで踊っていました。20歳といえば、一番活発に行動する時期なのに、不憫というか家でパソコンやげーむばかりして過ごしているのが、もったいないと思ってしまう。パソコンは便利な道具だけど、行ってもいないところに行った気にさせたり、時間を忘れさせてしまう恐ろしい道具でもあると思う。
これだけ普及したものを、どうすることもできないけど。
私は病弱です。けど、ひきこもりにならないのは、家にばかりいるのはつまらないからです。大勢の友達とランチしながらしゃっべたり、派遣でいろんな会社に行くことは、いろんな世界がみれて楽しいのです。
私と二男の違いは、なんでしょう?
二男はとてもプライドが高いです。変な知識が入ってしまい難関大学の在籍者や卒業者が偉いと思っています。それで、私のことは馬鹿にしたりします。
学歴がすべてじゃないとわかる日がくればいいのですが。
自分が馬鹿にされるのが怖くて、ひきこもっている?そんな感じです。
私は人には恵まれていて、アトピーでも「そんなこと気にすることないよ。」といってくれる友人がいたり、化け物のような顔になっても支えてくれた夫がいます。 けれど、二男は醜い顔の女が母親だと受け入れたくないようです。
もっと大人になれば、受け入れたくない状況も自分の周りで起こっていることは、受け入れるしかないんだとわかってくるでしょうか?
自分が育ってきた時代の人と今の人を比べると、考え方が幼いと思ってしまうんです。個人の尊重とかよりは、協調性とか言われた時代に育ちましたから。
私より上の60代以上の人はもっとパワフルです。
派遣で野菜の仕分けにいったときの話ですが、60代の女性が班長として仕切っていました。8時からの勤務なのに7時に出勤しているです。準備のために。派遣は5時上がりだけど、そのあとも仕事続けている。
私はたまに入るから楽しいのだけど。立ち仕事で週に4,5日働いているって、頭、下がります。
そうすると、若い人、ハングリー精神がないというか。便利な文明が人をだめにしてしまうというか。私は正直な気持ちで書くから、批難される。
傷つく。と書く人いるけど、傷つくことなしに成長は、ありえない。変なプライドなんて捨ててしまえ。同じ人間なんだから。赤の他人にどう思われようが関係ない。そうして、人間は強くなって行くんだ。
にゃんさんの貴重な体験談が、多くの人の励みになりますね。私がにゃんさんに感じたのは、何て繊細なんだろうです。
にゃんさんがくれたアドバイス。よくよく考えてみました。
にゃんさんは、自助グループの考え方に共感できて、
おすすめしてくれて、いるのかな。
でも、私の場合に、当てはめるのは無理かな。
アトピーに関しては、病院、漢方、民間療法いろんなことを試したしお金も相当使ったけど、治らないし、それを、相談する場所ももうない。
私の苦しみは他に救いを求めても、どうなるものでもなかったし、超健康な母親に「わかってくれ。」と言ったところで、無理なんだと自分でわかった。
小学校の運動会の夜、喘息の発作を起こした。父に「運動会で走るからいけないんだ。」と叱られた。私は事前に誰からも、「走ってはいけない。」と言われてなかったから、呼吸困難で苦しんでいるのに、こんな理不尽なことをいう父を憎んでいた。
中学生で、病院に行っても発作がなかなか治まらなくなって、自殺を考えた。手首を切ろうと思ってけど、できなかった、そのとき、自殺できないのなら、どんなに苦しくとも生きるしかないんんだと覚悟を決めた。
そして、信仰に興味がでて、いくつも訪ね、自分の納得いく答えに巡り会えたと思った。「因果応報」この世の苦しみは前世にしてきた行いの結果。そして、人間は魂の成長のためにこの世に修行に来ている。神様から合格点をもらった人は、天国で苦しみのない生活をしているけど、そこまでいっていない人は輪廻転生を繰り返していく。そして、改心の無い魂は、神様が消されるそうです。
悪いことが起こると、それで、前世の罪はひとつ消える。みそぎ祓いというのだけど、だから、悪いことが起こっても、感謝なんだという教えです。
ここに入信して、やっと父を許せるようになりました。父は完璧な人間でない。つい、うっかり相手を傷つけてしまうようなことを言ってしまうなんて、誰にもあると。そして、まじめに働いてくれたのだし、病弱の娘を育てるのはたいへんだったのだと思いました。みなさんがとにかく明るいし、親切だし、物事を良い方に考えるので、すばらしい教えだと思いました。
けど、二男には嫌だったわけです。「おかあさんが、そんなことやっているから俺はこうなった。」と言われた時は、ショックでした。
「自分がひきこもりになったことを人のせいにするんじゃない。」と思いましたけど。私が信仰をもったせいで二男がひきこもりになったとは、思いたくありません。だって、母親が信仰をもっている人はたくさんいますし、親と同じ信仰に入ってりっぱになった人は大勢いいます。ただ、何かのせいにすると楽だから、自分のせいと認めたくないのだと思います。
私と息子は縁あってこの世で親子になった。
私もこの状況を通して、学ぶべきことがあるのだと思っています。
私が病気でも夫が懸命に私を愛し支えてくれたように、息子に接するということを過去に何度も試みましたが、反感が強いんです。
何かの出来事があって、心が変わるのか、それとも、第2ラウンドが来世に持ち越されるのか。わかりません。
はじめまして、キングコングさん。
返信遅くなってしまい、すみません。
私も履歴書書いて面接受ける、ということがどうしても出来ません。
でも、私にとっては「仕事」というものはその方法しか考えられなかったし、「仕事をする」事を絶対に諦められなかったので、なんとしてもそのやり方を通そうとしました。
でも、どうしても、それが出来ずに、ひきこもり続けてしまう。
それを逃げだとか甘えだとかおもい、自分を責めました。
それでも、動かない、動けない。
ある時点で、私の考えは180度変わりました。
もしかしたら、私にとってその履歴書書いて面接受ける、という仕事のやり方、あるいはもっと正確に言えば、私にとって働き方が「それしかない」、ということ自体が、本当の私の苦しみなのではないかと思ったのです。
世の中、いくらでも色んな働き方をしている人はいるのに、どうして私はこのやり方に執着し、それが出来ないとこんなにも自分を責め、ひどい場合は生きている価値すらないとまで思ってしまうのか。
ほんとは、私の体がひきこもることでそれを必死に止めようとしてくれているのではないかと、私は気づきました。
自助グループに通い、ありのままの自分を受け入れられるという体験を続けるうちに、私は劇的に変化していきました。
キングコングさんが仕事をすること自体を諦める必要はないと、私は思います。
ただ、仕事をするやり方(面接など)とそれに執着する事に「問題」があるのかもしれない、そもそも面接出来ないのは、面接という行為自体が自分は本当に嫌だからなのかもしれないし、体はちゃんとそれを認識している、もしかしたら、それを解決したらなにか変るのかもしれないと、考えてみるのはどうでしょうか?
そして、面接など受けなくても得られる仕事を考えてみるのはいかがでしょうか?
あるいはもっと根本的に、たとえ仕事ができなくても、自分は生きていていいんだ、ひきこもっていていいんだ、という自分の存在そのものを無条件に肯定出来るようになると、色々変わってくるかもしれません。
私はそこから、すべてが大きく動き出しました。
そうして「問題」に取り組むことを、私は逃げだとか甘えだとは思いません。
私はキングコングさんはひきこもっていいと、思います。
ひきこもる自分を肯定し、他の働き方を自分に許し、そして実際にそれを受け止めそれに見合う仕事に繋いでくれる支援者の方を探すことこそに、キングコングさんのこれからの力を使っていくのがいいと、僭越ながら私は思います。
私も、働いていません。
現在は、自助グループや、居場所、NPOさんの集まりに参加したりして、自分の話をさせて頂いたり、人様の話を聞かせて頂いたりしながら、私も含め、ひきこもりさん共ども皆が安心して暮らせるような社会づくりのための研究、活動をしています。
そして、つらくなったら、なんかおかしいなと思ったら、ちゃんと随時ひきこもる、という生活です。
なにもせずにひきこもっていい、ひきこもる自分を否定しないという事を自分に保障(自分との契約)しているからこそ、それが可能なようです。
なんだか、自分の人生を生きているような気がして、とても穏やかな気持ちです。
こうした活動を通して、無理なく「働く」ことが出来たらと、私は思っています。
上手く言えませんが、私も、キングコングさんの働きたいという気持ちと、キングコングさんの存在そのものを尊重させて頂きたいと思います。
あきさんへ
あなたの思考、信仰に沿えば、二男がひきこもりで、自身が苦しむことにも感謝しなければいけないと思いますが、文章を読んでいるとそうは思っていないように見えました。
子のひきこもりに苦しみ、学ぶことを神から与えられているけど感謝はできない。引きこもって苦しみを与えてくださり有難いとは思えない。私にはよくわかりますが。
親がこうだからこうなったというのはおかしい、そういう親は他にもいるではないか。親のせいにして自分の責任を認めたくないのだと。 他の人も似たようなことを話していた人はいましたが、発達障害の子供に他の子供達はこうだからと言っても徒労が増えるだけだと思いますが、人に個性があるのだとしたら、人によって適切な接し方が、教育がことなって当たり前と思うのですが。
苦しむことでみそぎ祓し罪を消すしかないのだとしたら、苦しむしかないですね。親のせいだと言われてくるしくとも、有難いとしか思うしかないのでしょう。あきさんの信仰から言えば。
赤の他人にどう言われようが関係ないならそれもまた真理でしょうから。
はじめまして、磯五郎さん。
遅くなってすみません、横レス失礼致します。
>あきらかに甘えているだろうと思える人が~
・全くその通りだと私も思います。
トラウマや病気があって動けないというのもあるし、自分を責めたり必死で動こうとしているけれど、体がどうしても動かない、つまり物凄い勢いでペダルを漕いでいるのだけれど空回りしている感じもあるでしょう。
私は正直、色々活動出来るようになった今と、家で動けずにいたときとどちらが頑張っていたかと言ったら、断然後者でした。
外からの判断はまるで意味がありませんし、本人の言を信じることがなにより大切だと私も思います。
>やっぱり、ひきこもりの人生そっちのけで~
・子は親が思っている以上に敏感ですよね。
それは親が自覚していない親自身のことまで感じている、という意味でもあります。
私は子のひきこもりなどの行為は、むしろそういった親の欺瞞や隠蔽しているものを暴くために行っている、という側面もあると感じています。 その暴き立てられたものと、親自身が向き合えるようになると、随分変わるのかなとも思います。
>自分よりもっと困っている人達を助けたい…という気持ちをひきこもりに強要しようとするのもどうかと
・それが出来るようになるには、その人がしっかりと助けられ、満たされた経験が無ければ出来ないと私も思います。
つまり、本当の意味で満たされたことが無く、本当の意味で甘えることが出来なかったからこそ(つまり親や周囲が勝手に甘やかしたと一方的に言っているだけ)、そういう事になっていると思います。
そしてその満たされなかったものを、他者への献身で賄おうとすることが、いわゆる共依存(こういう人はいっぱいいます)。
ある意味、自分が満たされなかったものを、他人を満たすことでではなく、ちゃんと自分を満たすことで取り戻そうとすることは、健全なことなのだと私は思います。
>自分をどう向上させるか、なんてね、~
・そうですよね、本当に、嫌になるくらいに、強迫的に考えていますよね。
思い返すだに涙が出てきます。
苦しかった。
人間には元々自然に変化成長する力があって、だからそれに身を委ねていれば自然に成長していきます。
ですがこの社会では「こう成長しなければいけない」というモデルや、自分のペースを超えた成長を求められ押し付けられます。
ひきこもりさんは、その押し付けられた成長を拒み、本来の自分の成長を遂げようとしているのだと私は思いますし、げんに私は押し付けられた成長を「諦める」ことによって、現在ゆっくりと自然に安らかに成長している自分を感じています。
>ひきこもりは働いてる人の悩み苦しみがわからない、とでも言いたげな
・私は働いていないので、働いている人のことはわかりませんけれど、その分働いている人の苦しみを強迫的に「妄想」し、それと働いていない自分を比べて自分を責める苦しみにのたうち回っていました。
>逆に、ひきこもりの苦痛を理解しようとしないでしょう。
・基本ひきこもりさんは四面楚歌ですよね。
みんな周りは敵、笑っちゃうくらいに(笑)。
だから生き延びるために、周りに迎合して自分も周りと一緒に自分を責めるしかない。
ゆえに実は、なによりひきこもりさん自身もまた、自分自身のことを理解できなくなっちゃうという、恐ろしいスパイラル。
誰かひとりでも理解してくれる、最低でも責めない人がいれば、それが突破口になるのですけれどね。
>とにかく、何もかも決め付け過ぎる。~
・ひきこもりさんに対して、自分の価値観を元にして決め付ける人達というのは、自分が必死に隠して押さえ付けて、我慢してきたものが、ひきこもりさんを見ると一気に噴出してしまい、それまでの自分の人生が保てなくなるからだと私は思っています。
だからたとえ辛いものでも自分の人生と同じものをひきこもりさんに押し付けようとするし、それは自分もまた、上の世代にそうされてきたからです。
連鎖してますね、私はこれを呪いと呼んでいます。
そして・・
ひきこもりさんは、この呪いの連鎖を断ち切ろうとしている、私達にとってとても大切な存在なのだと、私は強く感じています。
だから私は、ひきこもりさんとご自分の苦しみを分かち合い、そして癒していこうとする回復を、ご家族や周囲のあらゆる人達にお勧めしたいと思います。
なぜなら、ひきこもりさんをこの世に生み出してくれたのが、他ならない、今まで上の世代に押し付けられたものの中で、必死に生き延びてきてくださった、あなた方なのですから。
営々と、私達は代を継ぎながら、ほんとうに幸せになろうとしてきたのだと、私は思っています。
いちひきこもりとして、自分の経験をこの私達の社会に還元出来たらと願っています。
感謝を込めて。
みなさまへ
このスレッドも随分長くなってきましたので、別のスレッドでお話の続きが出来ればと思います。
勝手ながら、新しいスレッドを立て直しましたので、よろしければそちらにお移り頂ければと思います。
まだしていないレスもそちらの方でさせて頂こうと思いますので、よろしくお願いします。
忘れたさんへ
ご意見、ありがとうございます。人によって適切な接し方が、教育がことなって当たりまえ。この点について肝に銘じたいと思います。
私も反省すべき点は反省しないといけないと思います。
(一部修正)
はじめまして、磯五郎さん。
あきらかに甘えているだろうと思える人が~
ごめんなさい。
私は、たまたま、他のサイトで、
「働かないで、生活保護もらったほうがいいだろ。」みたいな
書き込みを見てしまったんです。
にゃんさんが、磯五郎さんに懇切ていねいに答えてくださったこと
全て承知の上です。
それが、理想だと思います。
ただ、色んな相談機関を訪ねた結果、
支える側の人材不足を感じています。
残念ながら、親も完璧でないから、どうしていいかなんてわからないのです。
だから、良いと思ったことをとりあえず、試している。
こうすれば、解決するなんて良い方法が支援するがわにもわからない。
私が通うカウンセリングは担当者がしょちゅうかわるけど、他人の悩みを聞くのは負のパワーをもらってしまうので、大変な仕事なんだなと思います。
助けたいと支援に向かって、鬱になってしまう人もいるし、、心が強く、他人を助けたい気持ちがあってなおかつ、相手の気持ちに寄り添える、そういうスーパー支援者って、数が少ないんですよ。
(一部修正)