小説8050
林真理子
新潮社
2021年
400ページ
世間の関心も高い「ひきこもり」小説
今回取り上げた書評は、林真理子さんの小説「小説8050」です。2021年4月の発売から話題になっているので、ご存知の方もいるのではないでしょうか。発行部数は6月23日現在で累計11万7000部を超えている(DIAMOND online – 2021-6-28 https://diamond.jp/articles/-/274983)ということで、世間の関心も非常に高い作品です。
ひきこもり「的」なもの、またはひきこもりをテーマに据えた小説は古くからたくさん書かれてきたと思います。しかし、社会的事象として取り上げられる「ひきこもり」、特にひきこもり当事者と親の高齢化を表す「8050」をテーマにした作品がこれほどのヒットに至ったのは、まれなケースだと思います。元農水事務次官による息子殺害事件の影響があるように感じられる点も、リアリティを醸し出す仕掛けになっています。
「小説8050」のあらすじ
ここで、作品の簡単なあらすじを紹介します。ネタバレになる部分もあるので、知りたくない方はご注意ください!
舞台となるのは、街の中にある小さな歯医者。小説の主人公である歯科医師の正樹には、妻の節子、長女の由依、そして長男の翔太という家族がいる。子どもたちは成績が良く順調に育っていたかと思っていたが、私立中学に通っていた翔太は突如不登校になってしまい、7年間自宅にひきこもったまま20歳になる。結婚を控えた由依には対面を保つために翔太を何とかしてほしいと迫られ、ひきこもり当事者の社会復帰を高らかに掲げる怪しげな団体に相談するなど東奔西走。しかし、努力は空振りに終わるどころか翔太の不信を買ってしまい、家庭内暴力が始まる。
その後、翔太が元同級生から、中学時代に執拗ないじめを受けていたことがわかる。翔太も、自分をいじめた3人に復讐をしたいという言葉をポツリポツリと口にする。正樹は学校問題に詳しい弁護士の高井に依頼し、7年前のいじめに決着をつけるため裁判の準備をはじめる。しかし、正樹の強い思いとは裏腹に、温度差を感じる家族たちは空中分解してしまう。
親の視点から描く「家族」の形
この小説は週刊新潮で連載していたもので、加筆・改稿した本書は400ページにも及ぶ大作になっています。しかし、ストーリーにのめり込むとページをめくる指が止まらなくなり、数日で読み切りました。
本書は、7年前に息子をいじめた加害者に対し裁判を起こすことが物語の本筋になっています。ただし、時間が経過するほど裁判は困難となり、「すべて思い通りにいくわけではない」という現実的なハードルが家族を阻みます。その中でもあらゆる努力や幸運が結実して一応の決着をつける姿に、一種の爽快感があると思います。
ひきこもりを主題にした小説だと思っていましたが、実際に読んでみると複数の論点が絡み合っていることがわかります。いじめ問題や人間の尊厳、そして最終地点には「家族のあり方」という最大のテーマが横たわっています。むしろ、ひきこもりそのものは大きなテーマではないのかもしれません。息子のひきこもりをきっかけに正樹と妻の節子が別れてそれぞれの道を歩む「家族関係を分解し考え直す物語」と捉えられるのではないでしょうか。
そもそも、主人公はひきこもった息子ではなく、その父親である正樹です。しかも、正樹は妻の節子に対して「お前の育て方が悪いからこうなったんだ」など、妻に言ってはいけないセリフを何度も繰り返す旧弊な父親として描かれています。さらに、息子には「将来医者になってもらいたい」という願望をもち、子どもが小さいときから本人に言い聞かせてきました。それもひきこもりになった一因だと感じましたが、こうした過去の言動もすべて父親の目線から語られています。
親子の設定が「5020」である理由
「8050」という言葉を知らない読者が、この本によってひきこもりへの関心が高まることには大きな期待があります。ただし、先ほども書いたように、ひきこもり当事者の心情そのものに焦点を当てたものではありません。
たしかに、ひきこもりとして登場する翔太には当事者のやるせない気持ちや焦りが描かれています。また、そんな息子を心配しながらも「一刻も早くどうにかしなければ」と戸惑う両親の姿にも共感を覚える人は少なくないでしょう。しかし、読みやすさの功罪なのか、スピーディーな展開によってひきこもる心の繊細さが削がれている気もします。
本書のタイトルは「小説8050」ですが、登場する家族の年齢は、いわば「5020」といったところです。「8050」という言葉自体は、高齢化する親子を指す言葉でもあるので年齢に決まりはありませんが、それにしては若い親子がベースになっています。
この理由については、著者のインタビューで語られています。
深刻な現実をそのまま書いても読者の興味を引けないので、希望が持てる小説にしようと思いました。「8050問題」は「80」代の親が「50」代の子供の生活を支えることを指しますが、それでは遅すぎると思い、年齢を下げて50歳の父と20歳の息子という設定にしました。
(引用:ウートピ 2021-06-01 https://wotopi.jp/archives/114042 )
小説作品のジャンル分けというのは不毛かもしれませんが、本作はひきこもりについて知らない人をも惹きつける、一種のサスペンス小説だと思いました。
ヒロイズムに満ちた弁護士・高井や、エゴを剥き出しにしながらも最後は家族への愛情を覗かせる「どこか憎めない」長女・由依などの作為的なキャラクターが数々のトラブルを盛り上げます。しかし、「8050」を主題にするのを避けたことには、踏み込みの物足りなさを感じます。
重いテーマと向き合っている作品の例として、ハンセン病患者の北條民雄さんが書いた戦前の小説「いのちの初夜」があります。これは、ハンセン病患者の療養施設での出来事などを手記のように書いた作品ですが、自死を真剣に考え苦悩する主人公がほかの患者との交流をきっかけに、自分の置かれた状況を前向きに捉え直そうとする物語です。ここでの心情描写は重苦しく切実なものがありますが、その中にもかすかな希望が見つかるということに救われた気持ちになります。
「小説8050」は、社会問題としての「8050」の重さが堪えたからこそ、年代の設定を変えたのかもしれません。そのために、8050問題の根幹までは描ききれなかったという印象が残ります。
現実にひきこもりをもつ家族への支援・対応
物語は、家族同士で本音をぶつけ合って離散するという荒療治により、個々人が自分の人生を歩み始めてわだかまりが溶けていくという、希望の残る終幕を迎えます。かなり刺激的な展開ですが、もちろん長期化したひきこもりの子どもがいる場合、そのような方法しかないのかというとそうではありません。2020年に親スタで取材した「バックアップふじさわ社協」のように公的機関によるサポートもあるほか、精神科医・斎藤環さんの著書「「ひきこもり」救出マニュアル」(ちくま文庫)のように、家庭内暴力等が起きたときの対応方法を詳細に記した著書もあります。
また、本筋からは外れますが、いじめ問題については、評論家でNPO法人「ストップいじめ!ナビ」代表の荻上チキさんが調査内容をまとめた「いじめを生む教室 子どもを守るために知っておきたいデータと知識」(PHP新書)でいじめが起きる構造を分析するなど、理解を深められる本もあります。
本書がきっかけでひきこもりに関心をもった方や、身の回りでひきこもっている人がいるという方は、実際の現場の様子を伝える本にもぜひ触れてみてほしいと思います。