出家的人生のすすめ表紙












出家的人生のすすめ
佐々木閑
2015年
集英社新書
208ページ


皆さん、こんにちは。こゆるぎです。
stepの近藤さんに不登校ひきこもり情報誌「今日も私は生きてます。」を、NPO法人コス援護会の園田さんに漫画「健康で文化的な最低限度の生活 」を紹介してもらったこのコーナー、今年度最後はNPO法人湘南市民メディアネットワークの増田さんにお願いしたよ。
「出家」という気になる言葉!一体どんなことが書かれているのでしょうか。増田さん、よろしくお願いします。

「ひきこもり」や「ニート」が社会の財産(?)


本書に興味をひかれたのはタイトルにもある「出家」という言葉と、第5章の「『ひきこもり』や『ニート』こそが社会の財産」という見出しだった。
「ひきこもり」や「ニート」が財産? どうして彼らと「出家」という生き方がつながるのだろうか。

「出家」という言葉について、著者の佐々木閑さんは明確にこう定義している。出家とは「世俗の暮らしでは手に入れることができない特別なものを求めて、世俗とは別の価値観で生きる世界へとジャンプすること」だと。
著者は仏教が「出家」というシステムを2500年あまりも存続させてきた最大の理由について、釈迦が世間の人々から「お布施をもらって生きる」というアイデアを発見し、それを「サンガ」という生活共同体を組織しながら守り抜いてきたところに求めている。
とは言えこの本の主眼は、必ずしも仏教における「出家」のありかただけを開陳することではない。あくまでも伝えたいのは、社会のほかの分野にも通ずる「出家的人生」であることを繰り返し述べている。

生活共同体「サンガ」とそれを支える究極の「律」~お布施をもらって生きよ~


著者は、釈迦の説く「出家」の特徴について「仏教は、必ず、教える側と習う側が一緒に暮らす生活共同体(サンガ)を形成する…(中略)…『出家』とは、サンガという一種の教育組織に参加すること」であると述べている。
なるほど、「出家」とは、一人孤独に修行するものというイメージは間違いで、志を同じくするものたち(働かないで好きなことだけして生きる)で共同生活を営むことが絶対条件なのだ。

しかしここで難題がある。どうやったら「住所不定、無職」の修行者たちの食べ物などを確保することができるのであろうか。
釈迦はずばり「世の中の、働いている人たちに頭を下げて、生活の中のあまったものやいらなくなったものを分けてもらい、それでいきてゆけ」と説いたそうだ。
特に「あまったものやいらないもの」だけで生きていけ、という部分が重要だと著者はいう。釈迦は自活(自給自足)を禁じたのだ。確かにこれは究極の「律」である。

さらにすごいことに釈迦は「『好きなことだけやって生きる』という生き方と、『世間の人々に頭を下げてお布施をもらって暮らす』という生き方が切っても切れない関係にあることをはじめて考え付いた」のだという。

釈迦が説いたことは「修行によって生きる苦しみを消す」という仏教の根本(自己変革)だった。それには「働かないで好きなことだけやって生きる」という意志を持ちながら、世間に対しては来る日も来る日もひたすら頭を下げ、心から感謝して暮らしていくことが必要になる。いわば「お布施をもらう」ということ(心構え)が修行の基本であるのだ。

自分の好きな道を進むために一般的な働くということを放棄し、生きるすべを全て社会に依存した生き方(著者は「社会への完全依存性」とも述べている)を選択する――よくよく考えると驚くべきことである。
普段われわれは社会人として自立して生きなければならないと信じ込んでいる(あるいは教え込まされている)。それとは真逆の発想ではないだろうか。

ただし著者は、お布施をしてもらってもそれに見合う「修行者」とならなければならず、それには大変な努力と鍛錬が必要とされるということもしっかりと付け加えている。

家の中で「出家」するという生き方


さて、ひきこもりである。著者は冒頭述べたように、その存在を「財産」とまでいいきったのだから、そこにある潜在能力(著者は「自分なりの別個の価値観を持っている…(中略)…から、真剣になんらかの目標を追い求めていく先には世俗からは現れようのない特別な発見、秀でたひらめきが期待できる」と述べる)を大いに称賛している。
しかし、その潜在力をいかに社会の側が認知して応援するかの具体的な提案を行ってはいない。実は、この本でのニート、ひきこもりについての記述はほんの2ページ程度である。

そこで最後に、ささやかながらひきこもりのサポートに携わるわたしが、このあたりのことをひきこもりの側にひきつけて考えてみたいと思う。
「好きことだけやって生きる」ことと「お布施をもらって生きる」ことの結びつきが、ひきこもりの方にとって持つ可能性である。

まずひきこもり自身の認識の問題がある。ある意味で、ひきこもりは「出家」であるという認識的な転換が必要なのだ。
通常世間から言われるような「自立しよう」とか、「働こう」とかは思ってはいけないのである。徹底的に「社会に依存した生き方」という価値観を自分のものにしなければならないのだ。(「社会に依存した生き方」については、一つの提案として勝山実さんの著書「安心ひきこもりライフ 」にある「半人前公務員」であるとか、精神科医関口宏さんの提案する「障害年金」に関するもの(https://hkst.gr.jp/oyasuta/11569/)が、そのヒントになるのではないかと思われる)
大変難しい転換である。ひきこもっている状況を「好きなことをやっている」と思ってみる。自分のおかれた状況を誰のせいでもなく、自分で選んだものだと思うのだ。

「お布施をもらって生きる」ことについても、やはり誰にも頼らずに自力で稼いで生きていくという思いが、誰しもどこかで自分の「プライド」を支えていることは確かなのだが、これを捨て去らなければならない。そして自分のなかにある、世間とは違う別の価値観を信じる心の強さが必要になるだろう。

これはあくまで本書を読んでのわたしの想像である。
だがそんな思いの果てに、釈迦の教えに倣い、いつか新たな「発見」や「ひらめき」を求めて集い、互いを支え合う「ひきこもりサンガ」を作れないかという無謀な思いがわたしのなかに今ある。そんな夢を抱かせる本との出会いであった。


【増田康仁】
1965年鎌倉生まれ。映画学校を卒業後、しばらくふらふらする。30歳を過ぎてスクールソーシャルワーク(山下英三郎氏が主宰。現在はNPO法人日本スクールソーシャルワーク協会名誉会長)に出会う。支援者の道を模索しながら、藤沢などでフリースクールの運営に携わる。その後ひきこもりなどが映像制作をする団体と出会い、現在にいたる。

NPO法人湘南市民メディアネットワーク http://scmn.info/

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