名前のない生きづらさ 野田彩花、山下耕平 2017年 子どもの風出版会 247ページ
「名付けられること」への違和感
本書は「名前のない生きづらさ」というタイトルが付けられている。意味するところは「自分でも名付けようのない生きづらさ」ということだそうだけど、その出発点は「(ひきこもりやニートなどと)名付けられることへの違和感」にあるといえる。
ひき☆スタの投稿ページでも、ニートという言葉が広く知れ渡っていることについて、ひきこもりに対する誤解を生んでいるのではないかという危惧の訴えが数多く寄せられているね。
そうしたユーザーの声と同じような思いを抱いているのが、本書を執筆した野田彩花さんと山下耕平さんだ。山下さんは、大阪のフリースクール「NPO法人 フォロ」の事務局長をしており(2017年3月当時)、そこが運営する居場所「コムニタス・フォロ(現在は「なるにわ」と名称変更)」に通っていたのが野田さんだった。
本書は4つに章立てされており、全体のおよそ半分が野田さんの不登校体験などを回想した「名前のない生きづらさ」で、2014~2015年に執筆したものに若干の加筆をしている。後半は山下さんが担当し「ひきこもり」に対して社会がこれまでに名付けてきた概説と、ご自身の活動紹介で構成されている。 今回の書評では、主に野田さんの体験記にどのような言葉が綴られているか紹介していこう。深く考え抜いた爪痕が刻まれ、真に迫る回想録となっているよ。
社会への「怖さ」はどこからやってくるのか
野田さんは2017年当時で28歳の女性。小学校3年生のときに不登校になり、その後は中学もほとんど通うことがなかった。卒業はしたものの高校進学や就職はしなかったという。
学校に通っていたころの回想をはじめ「母とのバトル」「働くことが怖い問題」「精神医療との関わりについて」など、16のテーマを立てて考えたことを素直に書いている。
野田さんが不登校になったのは「いじめを受けた」などのように、他人からの直接的な干渉が原因ではなかったという。図工や体育のような手を動かす作業の飲み込みが遅く緊張していた一方、得意だった算数などの座学では満点を取っていた。しかし、自分の点数を基準としてクラスメートが「野田さんに勝った!」などと喜ぶ声を耳にするたび、大きな違和感を覚えていたという。点数をものさしにして「評価されること」が、社会との「ズレ」を認識する原点になったようだ。
学校に限らず、働くことや女性らしくあろうとすることも、他人のあらゆる「まなざし」にさらされる。 「働けない」という声を挙げても、世の中からは「甘えたことを言うな」「働かないならどうやって生きていくのか」「ほかの人も苦労をしている」といった正論で返されることがある。それを踏まえて、野田さんは自分がなぜ働くことに対して「怖い」と思うのか、こんがらがった感情をこのように解きほぐしている。
>ちょっとだけ、わかった気がする。私の「怖い」という感情は「働くこと」そのものではなく、「うなずけない」という気持ちに対する数えきれないくらいの「そんなこと言うもんじゃない」という否定や反発、叱責の声や空気じゃないのだろうか。 ……私自身の潔癖さや、実際の就労経験からくるイメージが先行している部分も、もちろんあるだろう。ただ、大勢の人にとっての当たり前からこぼれ落ちてしまう人間もいる、ということだと思う。
性自認については、「女性」は自分という中身を入れる「いれもの」の形にすぎないと認識しており、性同一性障害やトランスジェンダーとは異なる位相において悩んでいるという。性別に対する認識がぼんやりしているためなのか、10代後半に美容室で化粧をされた帰りに気持ち悪く感じ、電車の中で号泣してしまった。また、成人式では振袖を着ず、タートルネックとジーンズという格好をして反発してみせたという。
社会から望まれる「良い生き方」「こういう風に働きなさい」「学歴は高い方が偉い」「女性らしくしなさい」。なぜ「良い」のか、「偉い」や「らしさ」の基準は何なのか。絞り出して出てきた答えは、根源的な疑問が圧殺されることへの恐怖だといえるのではないだろか。
私たちが登っていくライフステージは、ある意味で「名付けられる」ことの連続だといえる。それは「人生のレール」と呼ばれ、脱輪すると批判を受けたり心配されたりする。そうした声によって「ひきこもらざるをえない」人たちがいることを改めて考えさせられる。
その一方で、野田さんはこうした苦しみを乗り越える可能性についてこのように書いている。
>きっと私が思うよりたくさんの人たちが、奪われ、排除されたと苦しんでいるのだろう。しかし、それでも、奪った側の価値観を内面化し続け、自分を痛めつけたまま、他者を呪うのは、やっぱり違うと思うのだ。……時間がかかっても、いつかは自分に対する、他者に対する、世界に対する呪詛を超えていけると、私は信じているし、信じ続けていたい。 ……それは血へどを吐くほど、つらい往復だと思う。そして、ひとりで考えていると、どうしても暗いエネルギーを持っている呪いのほうへひっぱられがちになってしまう。だからせめて、いっしょに考えることはできないだろうか。いっしょにごはんを食べたり、ただなんとなくいっしょにいたりしながら、ちょっとずつでも。
神奈川県内にもある「名付けられない居場所」
本書の後半では、山下さんが知るさまざまな活動や「NPO法人 フォロ」主催の活動が紹介されているが、その中には「生きづらさを感じている人」というふわっとした括りで活動している居場所もある。そこには「会社員集合」とか「ひきこもりの人だけ」のように、名付けられた括りはない。「自分も生きづらさを感じているけれど、ひきこもりではないのかも……」と悩む人も参加できる。これが、野田さんが書くところの「なんとなくいっしょにいたり」できる場のひとつだといえそうだね。
神奈川県内にも、このように「人から名付けられない」居場所がある。ひき☆スタでも過去にいくつか取り上げているので、改めて紹介しよう。
生きづらさを抱える人たちが音楽や詩、絵などを発表・展示できる「布団の中のアーティスト」は、社会的な肩書を持つ人も、持たないと考えている人も「アーティスト」として参加できるイベントだよ。アーティストという言葉は資格や契約ではないのだから、社会に認められなくても自称できるもの。本来の意味でのアーティスト活動を実践しているね。
また、月に1回行われている「おむすびCafe」(NPO法人 ユースポート横濱が主催)は、「働いている人も、働いていない人も。若い人も、そうではない人も」誰もが参加できる。食事をしながら、なんとなく参加者同士で話して、なんとなくつながっていく。ゆるくて居心地のよいイベントになっているよ。2018年12月現在は、桜木町にある「さくらリビング」で定期活動中。ひき☆スタでも情報を毎月掲載しているので、チェックしてね!
そのほか、本書に関連して紹介したいのが哲学者の中島義道さんが書いた「生きることも死ぬこともイヤな人のための本」だ。社会との折り合いをうまく付けられない3人の若者と中島さんとの架空の対話を通し、ひきこもる行為が社会から「甘ったれだ」「怠けている」と見なされることへの悩みを言語化しているんだ。
ひき☆スタでは、「非社交的社交性」という中島さんの著書を過去に紹介しているので、こちらも読んでみてね。 https://hkst.gr.jp/review/10231/
【リンク】 【書評】泉谷閑示「仕事なんか生きがいにするな」を読んでみた。
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