ウォールデンの森表紙

著者:ヘンリー・D・ソロー
訳者:今泉吉晴
小学館文庫
2016年(原作は1854年出版)
448ページ

今回はアメリカの古典!ヘンリー・デイヴィッド・ソロー「ウォールデン 森の生活(上)」です。ボリュームがとても大きいため、今回の書評では上巻に絞ってご紹介するよ。

自然の”本当の”姿を知りたかったソロー

ソローは1817年生まれ。マサチューセッツのコンコードという自然豊かな土地で育った。

ハーバード大学では自然科学を学んだが、この頃は北米で大規模な開拓が行われていた時代。大学教授たちは都市に住みながら、害獣駆除を目的とした分類学を研究していた。

コンコードで生まれ育ったソローにとって、自然はその中に身を置いて、四季と動植物を自分の目で見てこそ本当の姿を知ることができるもの。大学の自然科学と距離を置いたソローは、北米史上初めてのナチュラリストとしてほとんど定職に就かず、詩的な表現を用いながら自然での生活ぶりについてたくさんの記録を残したそうだ。

「森の生活」に記された記録

ソローが小さいときから親しんでいた、コンコードにあるウォールデン池。ソローは28歳くらいの頃、池のほとりに小さな家を建てて住み始めた。自然と共生する実験は、およそ2年2ヵ月に及ぶ。このときの様子を記録したのが本書「ウォールデン 森の生活」になるんだね。

周囲は2.7kmあるというウォールデン池は、広大な森に囲まれている。ソローは日毎に森の探検範囲を広げ、そこに住む動物や生い茂る植物の観察や、食物の収穫などについて記している。

分業化していく社会を厳しく批判

この本に描かれたのは、博物学的記録だけではないんだ。

19世紀のアメリカは、産業革命に端を発した分業化の波が押し寄せていた。農業も例外ではなく、マサチューセッツは農作物の大量生産の中心地となっていたんだね。ソローはそうした社会と比較し、ウォールデンでの生活の方がいかに喜びに満ちたものであるか分析している。

ソローは、経済発展の論理的な後ろ盾となっていたアダム・スミスの考え方を厳しく批判しているよ。自分の手で小屋を建てるシーンで、ソローはこのように書いている。

私たちは、家を造る楽しみを、大工に譲り渡したままでいいのでしょうか?私は散歩していていつも、自分の家を建てている人の姿ほど、純真で自然な姿はないと感じます。 ……けれど、私たちは分業をどこまで細分化したら気がすむのでしょうか?そして、分業のどこに真の意味があるのでしょうか?

この箇所は、アダム・スミス「国富論」の「労働の生産力の改善は分業による」としていることを念頭に置いた反論だと考えられる。

また、ソローはヨーロッパ型の分業化と一人で作った手芸品を売り歩くインディアンを比較。インディアンが望むままに作る手芸品はなかなか売れないかもしれないけれど、彼らは物が売れなくても餓え死にせずに生きるための方法を知っている、と評価している!上手に物を売る人よりずっと価値がある人たちである、と。

私たちが働く”意味”はどこにあるのか

ソローは、森で生活しようと思った理由について「人の生活を作るもとの事実と真正面から向き合いたいと心から望んだから」と書いている。

分業化が世界中に広がった現代、多くの国が経済発展を遂げ、食べ物や住まいに不自由しない人の割合が格段に増えた。しかし、その一方で働いたことへの成果が見えにくく、数字を眺めるだけでは実感がわかない人も多いのではないだろうか。仕事と生活の結び付きが見えにくくなったことは、生きづらさを感じる人の増加と無縁ではないように思うな。

それにしてもなぜ、私たちはそれほど多くの人の命を犠牲にして、忙しく働いて生きなければならないのでしょうか?私たちは、お腹がすいてもいないのに、餓死を恐れます。私たちは、備えあれば憂いなしと言って、明日の必要の何千倍も蓄えようと働きます。でも、”働く”といっても本当の目的はもともとなく、”働く”意味も見つけようがありません。

以前、ひき☆スタでインタビューした立正大学助教授・関水徹平さんは、ひきこもり当事者と非当事者間のギャップに触れながら「『働けるのか、働けないのか』という二分する単純な考え方ではなく、そもそも『働く』とは何なのかという点からあらためて考える必要がある」とお話していたよ。

働くことが辛いと感じるにもかかわらず、その働き方に自分が合わせようとするのはとてもハードルが高い行為。あえて主流の働き方に目を背けたソローの記録は、いま生きづらさを感じる人たちに、別の選択肢を提案しているように思ったよ。

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