居るのはつらいよの表紙

著者:東畑 開人
医学書院
2019年
368ページ

小説やエッセイのようでもありながら、論理的な解説が随所に現れる、不思議な「ガクジュツ書」。目的としているのは「ケア」と「セラピー」の実態を探ることなのだけど、それを専門的な論述だけで解き明かすことは難しい。そこで、デイケアを舞台とした(実体験のような)フィクションを使い、読者と一緒に考えていくという構成になっているよ。

まず、ストーリーについて簡単に触れておこう。 2009年、主人公の東畑は大学院を卒業。「ハカセ」号を手に入れ、カウンセリングで「セラピー」を生かしたいと考え就職活動を始める。 臨床心理士の就職を取り巻く状況は厳しかったが、ようやく希望に叶う募集情報を見つけた。そこは、東京から遠く離れた沖縄の精神科クリニック。たしかにカウンセリングの仕事はあったのだが、結果的にはクリニック内にある居場所型のデイケアでほとんどの時間を過ごすことになる。東畑はデイケアで経験した出来事を哲学や心理学などの理論を援用しながら分析し、「ケア」と「セラピー」の分かち難い関係性を分析。デイケアにくすぶる「居ることのつらさ」の核心に迫っていく。

日常に寄り添う「ケア」と困難と向き合う「セラピー」

本書のタイトル「居るのはつらいよ」は暗示的だけど、これだけでは何について書いているのかはまだ分からないよね。主人公の東畑は「ケア」と「セラピー」がデイケアでどのように機能しているか観察することで、ただ「いる」ことがいかに辛いか気付いていくんだ。

まずは、「ケア」と「セラピー」がそれぞれどのようなものなのかまとめてみよう。どちらも心理士の仕事の一環だけれど、実態はほとんどの心理士がケアを行っている。

ケア
日常や生活に密着した援助
痛みを取り除いたり、やわらげたりする
セラピー
傷つきや困難と向き合い、非日常的な時空間で心の深層に触れる
一見ネガティブに見える体験により、心の成長や成熟につなげる

セラピーは専門性が高く、治療的な要素もあるので利用者さんにとって有効な方法に思える。しかし、東畑はセラピーによるカウンセリングが必ずしも有効ではないことを知る。 ある女性の利用者さんとセラピーの手法を用いて話を聞いたところ、その女性はデイケアに来られなくなってしまった。彼女はセラピーを受けることで心の苦しい部分が外にあふれ出し、それが被害妄想を助長したのではないかと東畑は反省するが、もう一歩踏み込んだ分析をしている。

なぜ彼女が僕に話を聴いてほしいと言ったのか。 それは彼女がデイケアに「いる」のがつらかったからだ。だから、彼女はセラピーもどきではあっても、何か「する」ことが欲しくて僕に相談を持ちかけたのだ。そうすることで、デイケアに踏みとどまろうとしていたのだ。 ……僕も同じではないか。僕もまた「する」ことがなくて、「いる」のがつらいから、セラピーもどきに逃げ込んだ。……

ここで、「ケア」「セラピー」と「居ることのつらさ」が結びつく。

このデイケアでは、統合失調症、躁うつ病、発達障害、パーソナリティ障害など、さまざまな精神障害を持つ人がリハビリのために来所し、一日を過ごしていた。東畑は10時間をこのデイケアで過ごしていたが、その多くが自由時間だった。つまり「する」ことがなく、ただ「いる」ことが求められる。

仕事でも「忙しいより暇な方がつらい」とはよく言うけれども、デイケアも例外ではない。先の女性も東畑も、「する」ことへ逃げざるをえなかった。それほど「いる」のはつらいのである。

「いる」だけでつらいのなら、なぜデイケアというリハビリが存在するのだろうか。

さまざまな理由で職場にいられなくなったり、ほかのコミュニティにいられなくなったりする人たちがいる。デイケアは、そうした「人と一緒にいることが難しくなった」人たちが「いる」を試みる場所なのだという。しかし、利用者の多くが傷つきやすい状態にあり、環境や他人の言動に敏感になっている。利用者間のいさかいも激しい。そのときどきの利用者さんのニーズにこたえて「傷つけない」ようにする。これが「ケア」なんだ。

デイケアは「居場所」の性格が強く、利用者さんが安心して「いる」ことができる環境が求められるんだね。一方で、「いる」ための環境を整えているデイケアの職員も、またつらさを感じている。そのために職員の多くが次々と辞めてしまう労働環境についても触れているよ。

「居ることのつらさ」に潜む「市場」の存在

ただそこに「いる」ことが、なぜつらいのだろうか。

「いる」ことに心が折れた東畑は、4年続けたクリニックを辞める決意をする。そして、 「ただ、いる、だけ」のことを居心地悪くしている真犯人を追求する。東畑はそれを「会計」だと結論付けている。

ここに至るまで、東畑はデイケアでのさまざまな出来事を取り上げてきた。しかし、そのいずれにもお金にまつわる話はなかったので、この結論は唐突な印象も否めない。

「会計」とはやや固い表現だけど、どういうことだろうか。デイケアで言うならば、費用(デイケアへの予算)に対して利益(利用者さんの社会復帰)が生まれているかどうか、ということになるだろう。

会計には、合理的に予算を執行しているか測定するという原理がある。 デイケアには、社会復帰すること、仕事をすることなどが難しいという人たちが、それでも「いる」。しかし、それは会計の原理とそりが合わない。限りある国の予算の中で、生産性や効率性を求める声に対して居場所型のデイケアはこたえることができない。事実、居場所型デイケアの診療報酬は削減されはじめているという。

ここで再び「ケア」と「セラピー」が登場する。会計の原理は、利用者さんの変化を引き起こす「セラピー」と相性がいい。それに比べると、生産性に結びつかず、なおかつ測定しづらい「ケア」は「投資」ではなく「経費」に位置づけられてしまう。

「ただ、いる、だけ」に対して懐疑的なのは、予算の執行者だけではない。そこに携わる人たちも市場に生きている限り、ケアの市場価値、コストパフォーマンスの追求と無縁ではいられない。東畑自身が当初はセラピーを高く評価していたように。

ひきこもりと「いる」ことのつらさ

「いる」ことのつらさは、デイケアでの医療行為のみに限定した話ではない。著者はあとがきでこう書いているよ。

これはケアしたりされたりしながら生きている人たちについてのお話だ。あるいは、ケアしたりされたりする場所についてのお話だ。そう、それは「みんな」の話だと思うのだ。 職場、学校、施設、家庭、あるいはさまざまなコミュニティでの「居る」を支えるものと、「居る」を損なうものをめぐって、本書は書かれた。

職場では、非生産的な行動がないかチェックするために、職員の行動がGPSや日報で常に監視される。家庭では、家事や育児(本書では「依存労働」と表現している)の労働価値が低く評価される。専業主婦(主夫)は自身の存在価値を疑問視し、社会からますます孤立してしまう。

「いる」ことのつらさは、さらに踏み込んで言えば「生きづらさ」でもある。ひきこもり状態にある人が「ただ、いる、だけ」に深く絶望するのは、私たちの中に潜在する「それでいいのか?」という問いとの葛藤なのかもしれない。

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