居場所のちから表紙
居場所のちから―生きてるだけですごいんだ
西野博之
教育史料出版社
2006年
238ページ

フリースペースを運営していて感じたこと

 著者は神奈川県川崎市にある「フリースペースたまりば」の理事長。「学校や家庭の中に自分の『居場所』を見出せない子どもや若者たちが集まるスペース」として1991年にスタートした「たまりば」での日々の出来事、スペースの成長物語、子どもとおとなのせめぎ合い、親やスタッフの抱える悩み、エネルギーに溢れる子どもたちに気付かされることなどなど、その時々に著者が書きためてきたことがまとめられた本になってるよ。

自分に自信を持つ

 不登校やひきこもりなど「居場所」のない子どもや若者が集まる「たまりば」。しかし、そういった問題を抱えた人限定のフリースペースではないんだって。入りたい人は誰でも入れるし、来たいときに来るということを基本にしていて、必須の課題もない。しかし、自分で考えて行動を選択して決定することは、必ずしも気楽な場であるとは限らない、という。

 例えば、二十代半ばで「たまりば」にやってくる若者は、その費用を親に頼ることが精神的負担になっている。「居場所」に通いながら自信を回復しようとしているのに、開放されるというより、むしろストレスやコンプレックスにつながることもあるのだそうだ。そこで、著者は働いてみたい、という人たちと相談し、魚市場で自分たちができる仕事を見つけたという。もちろん仕事を見つけることが本来の目的ではない。それでも仕事プロジェクトを始めた理由について、著者は以下のように書いてるよ。

学校の外にあって、年齢制限を設けず、いたいだけいてもいい「たまりば」のような「居場所」のなかで、「自分自身をOKと引き受けることのできる自信をどうやって身につけるか」、これがわたしたちが抱えてきた長年の重要なテーマの一つである。「たまりば」で始めた「仕事づくりプロジェクト」は、そのためのきっかけづくりにすぎない…自分がひとの役に立つ、ひとから頼りにされる存在であることを確認する。それが「自信」をつくりだすことにつながれば、そんな思いからスタートしたのだった。


無駄に思えることも、生きていくためのプロセス

   「ひきこもり」にとって「自信」を取り戻すことは容易ではない。著者も当事者や体験者と呼ばれるひとたちと話す機会が多くなってきた頃、彼らの絶望感・罪悪感・孤独感は相当なものと感じ、「わかる、わかる」なんて、とても簡単には言えなかったという。それに、「援助者」の臭いを漂わせて近づく人物への警戒心はとても強く感じている。

 「たまりば」という名前には、著者の強いこだわりがあったみたいだよ。当時は「フリースクール」という言葉が流行っててウケも良かったけど、そこには不登校の子でもこられるような「学校」をつくってあげる、といったような大人社会の都合の良さを感じさせる。「居場所」のスタイルにこだわり、そしてこの名前にこだわることで中身が変質していくのに歯止めをかけようとしてきたんだって。

 そんな風に「たまりば」の信念を貫いてきた著者だからこそ、ひきこもるという行為を大事なプロセスと考えているみたいだよ。

いろんなひとたちと話しながら、最近つくづく考えることがある。それは、まわりがあれこれ「問題」だと感じたり、むだのように思えることは、すべて必然というか、起こるべくして起こっているのだなぁということ。そのことがいいとか悪いとかの話ではなく、それぞれがどんなに過酷なことであったり、社会的な評価からはずれるようなことであっても、そのひとが生きていくためには、そのプロセスを通ることが必要だったんだと。

 ひきこもるという行為を生きるプロセスととらえているのは、以前書評で紹介した「存在論的ひきこもり」にも通じているね。自分で考えて自分で行動するという「たまりば」のルールは、「ひきこもり」生活としっかりリンクしていると思うな。

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