不登校・ひきこもりが終わるとき
丸山康彦(相談機関「ヒューマン・スタジオ」代表)
2014年
ライフサポート社
336ページ
ひきこもり経験から語る、当事者の胸中
著者の丸山さんは、神奈川県藤沢市にある民間非営利相談機関「ヒューマン・スタジオ」の代表者。そこでの業務のひとつとして発行しているメルマガ「ごかいの部屋」が、当事者を持つ親や支援関係者、そして当事者からの評判が良く、創刊12年目にこうして一冊の本にまとめることになったんだって。
不登校/ひきこもりの経験者でもある丸山さんは、7年かけて高校を卒業したという経歴を持っている。本書の中でも高校時代のひきこもり体験を赤裸々に綴っているけれど、その後も社会人時代に再び7年ひきこもり状態に。相当な苦労があって今のお仕事に辿り着いたんだね。
相談員という仕事柄、当事者の親から相談を受けることが多いという丸山さん。親としては「早期の学校/社会復帰」を前提にした相談を持ちかけることが多々あるのだけど、自身のひきこもり経験から「事はそう簡単ではありません」と書いているよ。たしかに当事者の多くは「学校/社会に復帰したい」と願っているけれど、それならば本人たちはなぜ、支援の場に行けないのか。
「学校/社会に復帰したい」という、本人たちの「願い」の奥には、自分でも気づいていない「でも……」という「続き」があるとしか思えないのです。 ……それは「でも復帰できない」という“現状を訴えるもの”だけではなく「でもまず自分を創り直したい」「でも周囲に合わせるのではなく自分に合った生き方がしたい」「でも導かれるのではなく自分の足で歩きたい」「でも学校/社会への違和感と折り合いがついてからにしたい」などといった、複雑な心境や深い欲求も含まれています。
一方的に本人の「願い」だけを実現させるべく突っ走ってしまったら、また元の木阿弥となってしまうかもしれない。時間がかかってでも、もどかしくても「願い」と「思い」の両方を受け止め「人生に深い納得と肯定感を得る」という究極の目標を得ることが本人にとって大切なことだと書いているね。ふむ!
本人のペースに沿った支援
さて、そのためには周囲の願う「早期の学校/社会復帰」ではなく、当事者のペースに合わせた支援が重要になってくる。
周囲から見ると、当事者は一見「人生の歩みを止めた人たち」に見えるのかもしれないけど、著者はむしろ逆に「人生の歩みを続けている人たち」と見ているよ。それは著者自身の経験も込めて「トンネルを歩き通す体験」と表現しているけれども、出口の見えないトンネルの中のため、先の見通しがたたない不安におびえながら、ソロリソロリと少しずつ歩く、という光景に例えられるという。
歩いている本人の前に出て誘導するのではなく、本人の斜め後ろを本人と同じペースで歩き、本人が歩き疲れて後ろに倒れそうになったら頭を打たないよう支えたり、本人の靴がボロボロになったら取り替えたりする、というイメージ
一緒にトンネルを踏破するためのこうした支援イメージを「後方支援」と呼んでいるね。この「本人のペースに沿った支援」は、当事者を支える上での基本原則。著者が長年の相談員の経験で培い、確信を得た支援の考え方なんだね。
当事者への「肯定」とは「否定しない」こと
非当事者ではなかな共感しづらい当事者の心情。著者は親の方にも分かるよう、様々な例えを示しながらそのイメージを描写している。
しかし、この本で当事者の心情を見ていくと、実は非当事者の間でも思い当たるようなことがたくさんあるんだ。例えば、当たり前にできていたことができなくなってしまい、意識過剰になってしまうというもの。野球でも同じような意味で使う「イップス」という言葉があるね。当たり前のようにキャッチボールができていたのに、1度失敗してひどく叱られたとか、そうしたことでひどく落ち込んでしまい、意識過剰になってうまくキャッチボールができなくなることがあるんだ。これはプロ野球選手でも起こることなんだよ。横浜ベイスターズにもいるのかな……(^O^;)
だからこそ
不登校やひきこもりを特別な目で、あるいは“上から目線”で見て、対応や支援のことばかり考えるのではなく、自分と同じ人間としての悩みと見て、その軽減を手伝う、という普通の意識と姿勢が必要だ
としているね。
この事と関連して、当事者が抱く「自分はおかしい」「当たり前のことができない」といった「自己否定」を「否定しない」ということも、実は大切になってくるよ。
周囲の人は、自己否定感にさいなまれている当事者に対して「そんなことないよ」「考えすぎだよ」とつい励ましてしまうもの。しかし当事者の思いとしては「まじめに考えていることを軽んじてちゃんと聞いてくれない」と感じる場合もあるのだね。
こうした当事者の苦悩を「自分と同じ人間としての悩みと見て」、筆者は「否定しない」ことが大事だと書いているよ。なるほどー!
不登校・ひきこもりが終わるとき
本書の最後には、不登校・ひきこもりが“終わる”瞬間について、著者の体験をもとに考察が書かれているよ。著者の場合、不登校のときもひきこもりのときも「どん底まで落ちてから」「生きる希望を失うくらいの境地にいたってから」その終わりを迎えたという。この<底つき>に到ったその瞬間「突然人生観が変わって楽になった」そうだよ。
一見信じがたいような話かもしれないけれど、これはアルコール依存症などの人にも見られる<底つき>という表現と共通しており、著者の体験した“終わり方”は特殊なプロセスではない、と考えているんだね。
たしかに、過去にひきこもりや不登校を体験した人の中にも、徹底的に追い詰められたことがきっかけとなって動き出した人もいるよね。以前インタビューした宮本亜門さんも、ひきこもりを終えたきっかけは父親が怒って酒を飲み暴れだして、日本刀を持って宮本さんを追いかけたという事件がきっかけだったと話していたよ。
なぜ<底つき>になると、人生観が変わるんだろう?著者は「『命』という出発点に立ち返るため」と書いているね。それまで頭の中を占めていた「登校・就職をするかしないか」という問題が、もっと本質的な出発点「命」に取って代わる、ということなんだね。
あとから思えば、自分のこのような変化は「身の危険を肌で感じた」というものだったと、私は考えています。
しかし現在、国内に戦場はなく、飢餓もまだ多くありません。そのうえ、私は不治の病にかかっていたわけでも障がい者だったわけでもありません。だから多くの方は「身の危険なんかなかったはずじゃないか」と疑問をお持ちになることでしょう。
ところが、そのような現実的な身の危険や「生死」に直面していなくても、人は象徴的な意味で「身の危険」や「生死」を実感することがあるのです。それは現実のものではなく、感覚上のものです。しかしそれでも、人に立ち上がる力を与えるにじゅうぶんな場合があるわけです。
当事者が強く持っている「考える(悩む)エネルギー」は、社会に適応するためのエネルギーと激しくせめぎ合い、苦悩をもたらす。このことが「生死」という恐怖感を当事者の脳裏へ焼き付けるのではないかな。でも、その感覚が研ぎ澄まされることで、新しくみずみずしい「命」が宿り、人生観を変えることができる。その瞬間こそ「不登校・ひきこもりが終わるとき」なんじゃないかと思ったよ。
実は、この本はちょっと面白い仕掛けがあるんだよ。表紙では「常識」という名の鎧や荷物を身につけて汗を流していた当事者が、表紙を剥がして見ると、そうした鎧を脱ぎ捨てていなくなっているんだ。これこそ著者の考える「不登校・ひきこもりが終わるとき」のイメージなんだろうな~!
また、著者の丸山さんには、以前ひき☆スタで「支援団体情報をまとめてみた。【横浜市外編】」に寄稿いただきました。こちらもぜひ読んでみてくださいね。
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